第1章 目覚めるべきではなかった

水原寧々は病床から目を覚まし、少し驚いた様子を見せた。

あれほど長い間昏睡状態だったのに、まさか目が覚めるとは思わなかった。

あの時、大型トラックがハンドル操作を誤って、彼女と藤原南の車に向かって突っ込んできた時、考える間もなく、咄嗟に藤原南を守るように体を動かしていた。

藤原南を庇って重傷を負い、昏睡状態に陥ったのだ。

水原寧々の頭の中は、今も藤原南のことでいっぱいだった。

事故の時、彼女は体を張って藤原南を守ったから、彼はそれほど重傷は負っていないはずだ。

もう回復したのだろうか。

そのとき、廊下から声が聞こえてきた。

「南さん、水原先輩はまだ昏睡状態が続いています。今日おっしゃったことは、聞かなかったことにさせていただきます」淡々とした女性の声だった。

誰と話しているの?彼のことを南さんって?

水原寧々は眉をひそめた。彼女の藤原南なのだろうか。どうやら無事のようで、本当に良かった。

水原寧々は安堵の表情を浮かべた。

でも、彼は何を言ったのだろう?

彼女が意識不明の間、ずっとここで付き添ってくれていたのだろうか?寝る間も惜しんで看病してくれていたのだろうか?

普段から人に世話されることに慣れている彼が、こうして彼女の看病を続けるなんて、さぞ大変だったことだろう。

水原寧々はそう考えると、微笑んだ。

彼女の藤原南は、いつも彼女を一番に考えてくれる人。普段から、ちょっとした頭痛でも大騒ぎするくらいなのだ。彼女がこうして意識不明で横たわっているのを見て、さぞかし心配していることだろう。

彼女は口角を上げ、誰も呼ばずに外の会話に耳を傾けていた。

藤原南にサプライズを贈りたかった。

こんなに長い間昏睡していたのだから、きっと心配で心配で仕方がなかったはず。彼女が目を覚ましたと知ったら、喜びのあまり気を失ってしまうかもしれない。

彼らは結婚届を出したばかりの時に事故に遭った。二人で描いていた素敵な未来の計画は、まだ何一つ実現できていなかった。

でも今は大丈夫。目が覚めたし、体も大きな問題はなさそう。また幸せな日々を過ごせる。

そしてこれからもずっとずっと一緒に――藤原南が言った通りに。

水原寧々は藤原南がそう言った時の表情を思い出し、また微かに笑みを浮かべた。

「南さん、水原先輩はもう丸二年もここで横たわっています。記憶障害があるとはいえ、水原先輩があなたの妻で、かつてのあなたが最も愛した人だということは、みんな知っていますし、あなたにも伝えてきました。二人の思い出を忘れてしまったとしても、二年間一度も見舞いに来ないのはどうかと思います」

この言葉を聞いた水原寧々は、完全に凍りついた。

何?記憶障害?藤原南は水原寧々のことを忘れてしまった?

一度も見舞いに来ていない?

そんなはずない!

水原寧々は眉をひそめ、信じられない思いだった。

「桜、君が連れてこなければ、僕は絶対にここには来なかった。いいかい、水原寧々は僕とは何の関係もない。ただの名目上の妻でしかない。僕たちの間には何の感情もないんだ。僕の心の中には桜しかいない」

水原寧々はその声を聞いた瞬間、涙が溢れそうになった。

目を閉じる。

信じられない。

他の女性を「桜」と呼び、そんなに親密な口調で。

この二人は一体どういう関係なのか?

まさか、藤原南は彼女を裏切って、他の女性と付き合っているの?

水原寧々は悪夢を見ているに違いないと思った。この人は彼女の藤原南のはずがない。

水原寧々は病床に横たわったまま、再び目を閉じた。

また眠ってしまおう。目が覚めれば、何も起こっていないはず。

藤原南は相変わらず彼女を深く愛している藤原南のまま。

22歳の誕生日に、彼女と多くの友人たちの前で、真剣に水原寧々とすぐにでも結婚したいと願った、あの藤原南。

その時の二つ目の願いは、26歳の誕生日には二人の子供と一緒に過ごすこと。三つ目の願いは、水原寧々とずっと添い遂げることだった。

そして本当に彼女を引っ張って入籍しに行った。

区役所を出たばかりの時、藤原南は婚姻届を燃やすと言い出した。

水原寧々は慌ててその突飛な行動を止めた。

藤原南は彼女を抱きしめ、真剣な表情で言った。「寧々、やっと君は僕のものになった。安心して、僕たちの間には死別はあっても離婚はない。君から離れるなんて、僕が死なない限りありえない。いや、死んでも君から離れたくないんだ」

あの時の水原寧々は何を考えていたのだろう?

幼い頃から数々の苦難を経験し、多くの苦しみを味わい、何年もの間非人道的な扱いを受けてきた彼女に、神様は彼女をこれほどまでに愛してくれる藤原南を与えることで報いてくれたのだと。

あれほど彼女を愛していた藤原南が、こんなにも早く他人を愛するようになってしまうなんて?

そうだとしたら、彼女が自分の身の危険も顧みず、彼に飛び掛かって事故から守ったことは、一体何だったのだろう?

笑い話でしかないのだろうか?

外では会話が続いていた。

「南さん、ごめんなさい。今はあなたの気持ちを受け入れることができません。小さい頃から南さんのことだけを好きでしたけど、私たちが一緒になって後悔するのは嫌です。記憶が戻って、水原先輩のことを思い出して、本当に心の中から水原先輩がいなくなったと確信できてから、私たちは本当の意味で一緒になりましょう。今は、私を悪者にしないでください、南さん」

その清らかな声には、抑えきれない苦しみと辛さが満ちていて、思わず抱きしめて慰めたくなるような、二度と悲しい思いをさせたくないような声だった。

藤原南は自分が何をしているのか分かっているのだろうか?

新婚の妻が入院している病室の前で、別の女性に卑屈に愛を乞うなんて?

これは余りにも皮肉すぎないだろうか?

水原寧々は前世で一体どんな罪を犯したというのだろう。神様はなぜこのような形で彼女を罰するのか?何度も何度も彼女を見逃してはくれない。

病室の中で水原寧々の心臓が一瞬締め付けられるように痛み、五臓六腑が全て位置を変えたかのように痛んだ。

額には大粒の汗が流れ落ちた。

傍らの医療機器が急速にピーピーと警告音を鳴らし始めた。

廊下の医療スタッフがこちらの異変に気付き、急いでこちらに駆けつけてきた。

ぼんやりとした視界の中で、水原寧々は押し入ってきた医師や看護師たち、そして複雑な表情を浮かべる藤原南と彼の「桜」を見た。

佐藤桜。

かつて彼らの後を付いて回った後輩。

水原寧々は、目覚めるタイミングが悪かったと思った。

突然騒がしくなった病室で、藤原南は水原寧々の探るような苦しげな眼差しに出会うと、素早く顔をそむけた。

主治医と看護師たちは水原寧々の全身検査を行い、身体機能は既に退院可能な状態にあると宣言した。

あと48時間経過観察を行い、異常が見られなければ退院手続きができる。

医療スタッフが去った後、水原寧々は藤原南の姿を探したが見つからなかった。

彼は混乱に紛れて逃げ出していた。

彼女を避けることに必死だった。

でも彼女には彼に言いたいことがたくさんあった。

そして聞きたいことも山ほどあった。

佐藤桜は彼と一緒に立ち去らなかった。

背の高い、緩やかな巻き毛で、大きな目を持ち、肌の白い少女は、水原寧々のベッドの前に立ち、少し臆病そうな様子で。

「水原先輩、こんにちは。私、佐藤桜です。南さんは、用事があって、わざと会わないわけではないんです…」

水原寧々は彼女を見上げた。

本当に綺麗な人だ。

今のベッドで憔悴しきった自分と比べると、まるで天女のよう。

水原寧々は翌日には退院することになった。

安田さんが退院手続きを手伝い、入院費用はずっと藤原南が支払っていたことを告げた。

水原寧々の心に小さな期待が芽生えた。

藤原南は、そこまで情が無いわけではないのかもしれない。

彼女は海市大学に戻り、中断していた学業を再開した。

病院で二年間を過ごし、二年もの時間を無駄にしてしまった。その二年間を取り戻さなければならない。

失ったものを全て取り戻さなければ。

学業も。

そして愛も。

学業に関しては、彼女は常に余裕を持って対応できていたので、それほど心配する必要はなかった。

しかし藤原南は。

全力を尽くして取り戻さなければならない。

佐藤桜が言ったように、藤原南は事故で記憶を失っただけ。彼は一時的に彼女のことを忘れただけで、彼らの過去の思い出も一時的に忘れているだけ。

互いをあれほど愛し合い、相手のためなら何でもできた、そんな日々を。

だから、記憶が戻って、全てを思い出したら、きっと彼は彼女のもとに戻ってくるはず。

水原寧々は決して中途半端な人間ではない。物事を途中で投げ出すことは、彼女の人生の信条ではない。

絶対に彼を諦めるわけにはいかない。

もし彼が全てを思い出して彼女を探しに来た時、彼女が既に去ってしまっていたら、彼女の藤原南はどれほど辛い思いをするだろうか。

まるで彼女が二年間昏睡状態で、目覚めた時に運命の恋人が自分のことを完全に忘れていたように。

そんな苦しみは、彼女一人が味わえば十分。

彼女の藤原南は、太陽の当たる場所で生きていくべき。

彼女は毎日藤原南の教室で授業が終わるのを待った。

毎朝、朝食を持って藤原南の寮の前で待った。

彼女は笑顔で彼を呼んだ。藤原南と。

藤原南は彼女を見るたびに、嫌悪感を隠そうともしなかった。

「水原寧々、いい加減にしろよ」

「南、朝ごはんを食べたら帰るわ」

「その朝飯も持って、消えろ」

水原寧々は笑顔で彼を見つめた。たとえ心臓が激しく痛んでも。

しかし、藤原南は寮の下で佐藤桜を見かけると、すぐに別人のように変わった。

笑顔で彼女に近づいて。

彼は笑顔で近づいて言った。「桜、こんなに寒いのに、どうしてが迎えに行くのを待たなかったの?」

佐藤桜は横に立っている水原寧々をちらりと見て、少し気まずそうにした。

「水原先輩もいるんですね。南さん、水原先輩が用事があるなら、また今度来ます。」

佐藤桜は背を向けて去って行った。

藤原南は彼女の後ろで焦りながら叫んだ。「桜……」

しかし、佐藤桜は背が高く足が長いので、すぐに小走りで姿を消してしまった。

藤原南は振り返り、水原寧々を睨みつけた。その目はまるで火を吹くようだった。

「水原寧々、お前はわざとやったのか?桜との関係を壊そうとしているんだろう?言っておくけど、私たちはもう婚姻届を出しているけれど、お前はただの名義上の妻だ。二年前、お前がどんな卑劣な手段を使って私を騙して婚姻届を出させたのか、誰が知っている?私の言うことを理解したら、さっさと離婚届にサインしな。私はお前の過去の過ちを水に流すから。

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