第2章
葉山萌香は会社を出て、そのまま高橋司の家へ向かった。
高橋司との逢瀬は、彼が用意したマンションか、秘書室の休憩室で過ごすことが多かった。
ここへ来ることは少なく、私物もほとんどなかった。
スーツケース一つで事足りた。
葉山萌香は丁寧に荷物をまとめ、何も残していないことを確認してから、安心して立ち去った。
自分のマンションに戻ると、仕事のノートや引き継ぎ資料の整理を始め、退職届の準備にとりかかった。
秘書業務の引き継ぎは、二冊の業務ノートがあれば、後任者が把握できるはずだった。
問題は去年から担当している大規模インフラプロジェクトだった。
初めて任された大事なプロジェクトで、多大な努力を注いできただけに、途中で手を離すことでプロジェクトの進行に支障が出ないか心配だった。
一睡もできなかった。昨日の吐き気のせいで落ち着かず、親友の佐藤甘が留学から戻ってきた際、痩せすぎだと何度も検査を勧められたことを思い出し、半日休暇を取ることにした。
病院で検査を受けると、妊娠八週との衝撃的な結果が出た。
気持ちを落ち着かせ、会社に戻って用意していた退職届を持って、社長室へ向かった。
葉山萌香がドアをノックしようとした時、中から帝都の御曹司、青木琛の冗談めいた声が聞こえてきた。
「司、結婚するんだろ?葉山秘書はどうするつもりだ?」
室内が一瞬静まり返った後、高橋司の冷ややかな声が響いた。「何もしない。今まで通りだ」
「愛人でいいのか?彼女が」と青木琛。
「十分な金さえ払えば、何も文句は言わないさ」高橋司の声には嘲りと軽蔑が滲んでいた。
葉山萌香はその場に凍りついた。胸が鋭く痛んだ。
最初から高橋司に買われた身。結局、彼の目には十分な金さえ払えば、いつでも楽しめる商品でしかなかったのだ。
「本当か?」青木琛の声が急に高揚した。「じゃあ、もし俺がお前より高い金を出したら、彼女は俺に売ってくれるかな?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドアの外から村上昊秘書の声が聞こえた。
「葉山秘書?」
葉山萌香は村上秘書に頷きかけると、社長室のドアをノックして入室した。
青木琛は言葉を失った。
一瞬の気まずさの後、彼は桃色の目を細め、優しく微笑んで挨拶した。「やあ、葉山秘書」
葉山萌香は青木琛の先ほどの言葉を思い出し、吐き気を覚えながら、彼を無視した。
そのまま冷たい表情の高橋司の前まで歩み寄った。
高橋司は眉を上げ、不機嫌そうに彼女を見つめた。
「高橋社長」葉山萌香は高橋司を見つめ返した。いつもの優しく従順な態度はもう一秒たりとも演じる気になれなかった。「これが私の退職届です」と、毅然とした態度で差し出した。
高橋司は冷ややかな目で彼女を見た。「どういうつもりだ?」
「五年前の約束です。不倫関係にはならない。結婚されるなら、私は身を引くと」葉山萌香は退職届を置いた。「担当業務と未完了のプロジェクトは速やかに引き継ぎます。お二人のお邪魔はいたしません」
そう言って、葉山萌香は踵を返した。
驚愕の表情を浮かべる青木琛の前で足を止めた。
彼女は青木琛を、まるでゴミを見るような冷たい目で見つめた。
先ほどの質問への答えを、はっきりと告げた。
「売りません」
青木琛が我に返った時には、葉山萌香は既に部屋を出ていた。
彼は驚いて高橋司を見た。「今の凛々しい女性が、あの可愛らしい葉山秘書か?」
高橋司は立ち上がり、人を食いそうな気配を漂わせながら、大股で追いかけて出て行った。その瞳の奥には、本人さえ気付いていない動揺と戸惑いが浮かんでいた。
もちろん葉山萌香との約束は覚えていた。
この数年間、彼女は自分に従順で、どんな無理な要求にも応えてくれた......
だから彼は、自分が結婚しても葉山萌香が本当に去るとは思っていなかった。


























