第1章 荒唐な結婚
「稲垣栄作、私たち離婚しましょう」
高橋遥は目が潤み、涙が浮かんでいる瞳で、髪を拭いている稲垣栄作を見上げて言った。
突然、稲垣栄作は手を止め、その冷たい目には驚きの色が浮かんだが、それ以上に軽蔑の色が濃かった。
彼は隣のテーブルからタバコの箱を取り出し、一本を口にくわえ、妻がそばにいるのも構わず火をつけた。
しばらくして、薄い煙がゆっくりと吐き出され、空気中にニコチンの匂いが漂った。
高橋遥は静かに彼を見つめた。「稲垣栄作、私の話を聞いているの？」
「薬は飲んだか？」
高橋遥はうなずいた。これは彼と同じ部屋にいるときにいつもすることだった。
彼は自分の子供を産むことを許さなかった。
六年、彼女は彼を愛し続けた。
おそらくこれは報いだろう。あの時、彼女が仕組んだ事故で彼は結婚せざるを得なくなり、彼はずっと彼女を恨んでいた。
そのため、彼らが一緒にいるとき、前戯は一切なく、彼女が泣き叫んでも、稲垣栄作は一切容赦せず、むしろそれが彼の興奮を引き起こした。
返事を聞いた稲垣栄作はタバコをもみ消し、立ち上がると高橋遥の前でバスタオルを脱ぎ捨てた。バスタオルが落ちると、その筋肉質の体が完璧に現れた。
高橋遥は理解できなかったが、次の瞬間、稲垣栄作は彼女の手を頭上に押さえつけ、もう一方の手を彼女のシルクのシャツの中に入れ、最も敏感な部分を弄り始めた。
彼の顔が高橋遥の耳元に近づき、低い声で言った。「離婚？そんな言葉を使って、笑えると思わないか？」
「何か得たいものがあるのか」
「それとも、また欲しいのか？」
高橋遥は耳元の熱さを感じ、痒くてたまらず、心の中が熱くなった。
この六年間、稲垣栄作は彼女のすべてを知り尽くしており、彼が興味を持てば、彼女をからかうことができた。
首の窒息感に、高橋遥は激しく頭を振り、苦しそうに涙を流しながら言った。「稲垣栄作…もう…息が…できない…」
稲垣栄作は彼女の苦しそうな姿を見て、心の中に奇妙な興奮を感じたが、手を緩めた。しかし、その表情は冷たかった。「何か欲しいものがあれば、古屋に報告しろ…俺が承認する」
彼女の怨めしそうな目を見ても、稲垣栄作は無視し、まるで彼女のすべてが自分とは無関係であるかのように、ゆっくりと立ち上がり、彼女のそばからベルトを取り出して締めた。
彼は目の前のか弱い妻に対して、一切の感情を持っていなかった。それはただの事故に過ぎなかった。
離婚？
彼はそれを彼女が自分からもっと利益を得ようとする脅迫だとしか思っていなかった。
高橋遥はベッドに座り、涙を拭きながら服を整え、稲垣栄作の冷たい目を見つめた。彼女は今回の離婚の提案が無視されたことを知っていた。
彼の目には、彼女はただ家に飼われているか弱い女性に過ぎなかった。結婚前、彼女は国内で有名なバイオリニストだったとしても。
この数年間、彼女がどれだけ妻としての責任を果たしても、彼の冷たい心を動かすことはできなかった。
稲垣栄作の好みは非常に厳しく、彼女は数年間かけて彼の好みに合う料理を研究し、毎月数回は彼が帰ってきて食事をするようになった。
彼は香水の香りが嫌いで、彼女は各地の名医や香水師に相談し、彼のために調合した香水を作った。
彼女はまるで専業主婦のように、稲垣栄作のすべての生活を精緻に世話していたが、彼が彼女を愛していないことは知っていた。
「稲垣栄作、明日は私の誕生日…」彼女は最後の心の葛藤をしているかのように、声に祈りを込めて言った。
しかし、稲垣栄作は彼女の考えを見透かしたかのように、冷たく言葉を遮った。「もういい」
高橋遥は彼の鋭い目を見つめた。
稲垣栄作もまた彼女を見下ろしていた。彼女の目には祈りと戸惑いが書かれていたが、彼はそれを非常に滑稽だと思った。
認めざるを得ないが、高橋遥のか弱い祈りの姿は確かに魅力的だったが、ほんの少しの利益のために誕生日という口実を使って要求するとは。
彼女の誕生日を考慮して、彼は隣のテーブルから小切手を取り出し、数字を書き込み、彼女に渡した。「欲しいものは自分で買え」
彼の心の中では、高橋遥は飼われた花のようなものであり、彼の金がその水だった。
彼女が欲しいのはこれらではないのか？
彼女の物欲を満たせば、彼女は従順で合格な妻になるだけだ。
高橋遥は目の前の小切手を見つめ、説明しようとしたが、ベッドの上で稲垣栄作の携帯電話が鳴った。
それは特定の人のための着信音だった。
彼女は目を凝らして見た。連絡先には「白井侑里」と表示されていた。
これは彼のプライベートな電話であり、非常に親しい人だけが持っているもので、彼女でさえも彼のアシスタントを通じてしか接続できなかった。
彼女は知っていた。これは稲垣栄作の外にいるもう一人の愛人で、長い間続いていた。
一抹の酸味が襲ってきた。
涙が彼女の白い頬を伝い、絶望感が湧き上がった。六年間の努力がこのような結果をもたらすとは思わなかった。自分の衝動が今の報いを招いたのだ。
彼女は携帯電話を取り上げ、稲垣栄作に渡そうとした。
しかし、稲垣栄作はまるで気にしていないかのように、小切手を投げ捨て、彼女の手から携帯電話を取り上げた。携帯電話を見つめると、彼の目は柔らかくなった。高橋遥はその変化に気づいた。それは彼女が一度も持ったことのないものだった。
白井侑里、かつて彼女のバイオリンの曲が昏睡状態の稲垣栄作を目覚めさせたが、彼はそれを彼女の功績だと思っていた。
しかし、真実を知っているのは彼女だけだった。
だが、それはもう重要ではなかった。
彼が彼女を愛していないという事実だけが重要だった。
稲垣栄作は妻がそばにいることを気にせず、電話を取り、向こうから声が聞こえた。「稲垣さん、誕生日プレゼントありがとうございます。とても気に入りました」
「でも、今年の誕生日を稲垣さんと一緒に過ごしたいのですが…いいですか？」
稲垣栄作は何も言わず、ただ高橋遥を一瞥しただけで、彼女の表情に対して何の罪悪感も感じなかった。
高橋遥は彼の私生活に関心を持ちたくなかったが、最後の試みをしたかった。「稲垣栄作、明日も私の誕生日です。私も一緒に過ごしてほしい」
唯一の一度。
稲垣栄作は何も言わず、彼女の目を見つめ、何の感情もなく背を向けて去った。
やはり、妻と浮気相手の間で選ぶと、彼は最終的に浮気相手を選んだ。
高橋遥は彼の背中を見つめ、その姿、顔、行動のすべてが彼女の心を揺さぶったが、今ではもう初めのような愛情はなかった。
彼を引き止めたいと思ったが、引き止められないことを知っていた。彼の感情のない背中を見つめながら言った。「稲垣栄作…明日は私たちの結婚記念日でもあるの」
稲垣栄作はその言葉に足を止め、電話で「すぐに行く」と言った後、冷たい表情で彼女を一瞥し、去って行った。
高橋遥は一人で部屋に残された。
しばらくして、下からエンジンの音が聞こえ、高橋遥はバルコニーに出て、遠ざかる黒いベントレーを見つめ、心に絶望が広がった。
その時、家の使用人が部屋に入ってきて、高橋遥を見て、主人に対する敬意のない目で言った。「奥さん、会社から送られてきた先生の服です。ご自身で洗濯しますか？」
高橋遥は視線を戻し、ベッドの端に座り込んでぼんやりと答えた。「うん、自分で洗うわ」
稲垣栄作はクリーニングの調剤の匂いが嫌いで、彼のすべての衣類は彼女が手洗いしてアイロンをかけていた。
使用人はうなずき、続けて言った。「若様はこの数日H市に行くので、先生の食事の準備はしなくていいです」
高橋遥はうつむいてうなずき、窓の外をぼんやりと見つめた。彼女はもうこの男にどう向き合えばいいのかわからなかった。
涙が彼女の白い頬を伝い、小切手に落ちた。
稲垣栄作が白井侑里に対して見せる無微不至の優しさを思い出すと、彼女の心は寒くなった。
高橋遥は膝を抱え、空っぽの部屋を見渡し、静かに泣いた。
前年、彼女の実家は倒産し、兄は経済事件で拘留され、父は病気で毎月200万円以上の医療費がかかっていた。母は数年前に亡くなり、今の中村おばさんは彼女が帰るたびに、なぜ稲垣栄作からもっと利益を得られないのかと責めた。
「高橋遥、あなたは稲垣グループの社長、稲垣栄作の妻なのよ。彼のすべてはあなたのものよ。彼があなたを愛していなくても、あなたはそれを持つべきなのよ」
でも、現実は彼女の言う通りなのだろうか？
稲垣栄作が彼女のものになるはずがない。彼らの結婚はただの事故であり、愛はなく、ただの性だけだった。もし彼女の顔がまだ見られるものでなければ、性すらなかっただろう。
彼女の携帯電話にメッセージが届いた。
「高橋遥、あなたの兄は経済事件で十年の刑を受け、父もそのことで脳出血を起こし、入院している。状況は非常に危険で、大量の資金が手術に必要だ。さもなければ命の危険がある。高橋遥、稲垣栄作からお金を借りられないか？」
瞬間、高橋遥は携帯電話のメッセージを見つめ、心の中の最後の一筋の希望が崩れ落ちた。
携帯電話は彼女の指先から滑り落ちた。
