第4章
坂井晴美は目の前で彼女を引っ張っていく男を見つめ、少し恍惚としていた。
あの時も彼はこうして、彼女の手を引いて追っ手から逃げた。
もしあの時、藤原恭介が自分に少しでも冷たくしていたら、彼女はここまで深く愛することはなかったかもしれない。家族と決別してまで、彼以外と結婚するなんて考えもしなかっただろう。
でも、なぜ彼がここに?今何をしているの?
もしかして、彼女が他の男と艶めかしくしているのを見て、嫉妬しているの?
しかし、坂井晴美はすぐにその考えを打ち消した。
藤原恭介は心を持たない人。彼は一度も彼女を愛したことがない。どうして嫉妬するはずがあろう?
坂井晴美はトイレに押し込まれ、酒が回って力が入らなかった。
藤原恭介は冷たい表情で彼女を洗面台の縁に押しつけた。トイレの光を背にして、彼の顔の輪郭はぼやけていたが、その美しさは隠せなかった。
「坂井晴美、俺たちはまだ離婚してない!」彼は奥歯を噛みしめてそう言い放った。
坂井晴美は背中を洗面台につけ、鏡には彼女の背中の蝶のタトゥーが映り、とても美しかった。
彼女は目を上げ、心の痛みをこらえながら、平静な口調で言った。
「藤原さん、離婚協議書にはすでにサインしました。ある意味では、私たちはもう離婚したも同然です」
藤原恭介は坂井晴美の瞳を見つめ、一瞬震えた。彼女の手首を握る手に徐々に力が加わった。
「藤、原、さん?」彼は一言一言、静かに問いただした。
坂井晴美は以前、決してこんな口調で彼に話しかけることはなかった。いつも目に笑みを浮かべ、明るく輝いていた。
これが坂井晴美が初めて彼を「藤原さん」と呼んだ瞬間だった。こんなにも他人行儀で、すべてを遮断するような呼び方。
以前は彼女はいつも彼の側について「恭介」「恭介お兄ちゃん」と呼び、一声一声が柔らかく優しかった。
しかし彼はそれを好まず、その呼び方が嫌いだと言ったので、彼女はそれ以来そう呼ばなくなった。
「どうして?藤原さんと呼んではいけないの?」坂井晴美は目を細め、少し藤原恭介に近づいた。
結婚して三年、これが坂井晴美が初めて彼にこれほど近づいた瞬間だった。
目と目が合い、彼女は彼の漆黒の瞳に驚きを見た。
彼女が「藤原さん」と呼んだことに驚いているのだろうか?
坂井晴美は長年愛してきたその顔を眺め、声を低くして、語尾を引き伸ばし、魅惑的に言った。
「確かに違いますね。『元夫』と呼ぶべきでした」
藤原恭介の胸が締め付けられ、坂井晴美の手首をきつく握り、彼女を後ろに押しやった。
「坂井晴美、俺を挑発してるのか?」
「藤原さんを挑発するなんて、とてもじゃないけど」坂井晴美は軽く笑い、皮肉な口調で言った。
それでも、坂井晴美のこの態度が藤原恭介の心を乱した。
「坂井さん、大丈夫ですか?」突然、外から声がした。
坂井晴美が外を見ると、藤原恭介はその声が小林家の若様だと気づいた。
ふん、もうすぐに引っかけたのか?
坂井晴美はにっこり微笑み、藤原恭介の目を見つめながら、艶めかしく言った。
「大丈夫です、小林さん、少しだけお待ちください」
彼女はわざと「小林さん」を強調して発音し、故意に藤原恭介に聞こえるように答えた。
まるで藤原恭介に、彼という「藤原さん」が今や小林さんや田村さんと何ら変わりないことを伝えているようだった。
藤原恭介は眉をひそめ、目に怒りが湧き上がった。
坂井晴美が彼の目の前で他の男と密会するなんて!
「坂井晴美、あいつとホテルに行ったら承知しないぞ!」藤原恭介は歯を食いしばり、片手で坂井晴美の顎を掴み、非常に険しい口調で言った。
坂井晴美は藤原恭介を押しのけた。彼女には本当にその勇気があった。
彼女の杏色の瞳は細かな光を放ち、顔には晴美ちゃんらしい笑みを浮かべながら、最も優しい声で、最も冷静な言葉を口にした。
「元夫、あなたは越権行為をしています」
彼女は藤原恭介の感情に火をつける方法を知っていた。
藤原恭介は一気に坂井晴美を引き戻し、彼女の腰を掴んで壁に押しつけ、突然キスをした。
越権?
彼は彼女に見せてやる、真の越権とは何かを!
彼らは離婚協議書に署名しただけで、まだ法的手続きは済んでいない。ある意味では、彼女はまだ藤原恭介の妻だ!
彼の目の前で他の男とホテルに行くなんて、これは彼を侮辱しているのではないか?
坂井晴美の目は丸く見開き、信じられないという表情が浮かんだ。
藤原恭介は何を発狂しているのか?
結婚して三年、彼は彼女に触れることさえしなかった。なのに今突然キスするなんて?
彼のキスは激しく、坂井晴美は痛みを感じた。彼のキスに煽られたのか、酒が全身に回ったのか、彼女は全身が力なく崩れそうになった。
坂井晴美は洗面台に手をつき、藤原恭介の足の甲を思いきり踏みつけた。
彼は彼女を放さず、むしろ腰をさらに強く抱き寄せ、より深くキスした。
坂井晴美は眉をひそめて抵抗し、腕を抜き出して全力で藤原恭介を押しのけ、思い切り彼の顔を平手打ちした。
パン——という音が響いた。
トイレの中が静まり返った。
藤原恭介は顔を横に向けられ、唇を舐めると、唇の端には坂井晴美の口紅が付き、ウイスキーの香りがした。
坂井晴美は大きく息を吸い、口紅が唇の周りに広がり、目は少し赤くなっていた。
藤原恭介は指先を上げ、口角を軽く拭い、漆黒の瞳で彼女を見つめ、思わず低く笑った。
坂井晴美が彼を殴るなんて?
「これはお前が望んでいたことじゃないのか?」彼は再び近づき、内心は激しく揺れ、目には怒りが溢れていた。
「こんな格好で男を誘うんじゃないのか。どうした、外の男はいいのに、俺はダメなのか?」
「坂井晴美、俺の前で清楚ぶるなよ」
「藤原恭介、あなたは最低よ!」坂井晴美は怒鳴り返し、目には失望が満ちていた。
彼女が望んでいたものは何か、藤原恭介は分からないのだろうか?
彼女はただ少しの愛、彼からの少しの愛が欲しかっただけ。でも彼は一度もそれを与えてくれなかった。
彼は彼女に、自分が安っぽく価値のない存在、笑い話のような存在だと感じさせた!
藤原恭介は坂井晴美の冷たい目を見つめ、イライラした。
「最低?お前が必死に俺に結婚を頼んできたときのことを忘れたのか?」
坂井晴美の心は震え、胸が上下し、彼からの侮辱を聞いて心が冷え込んだ。
彼女の愛は彼にとって、彼女を傷つけるための武器に過ぎなかった。
彼のために自分を低く見せ、彼のために家族と決別し、彼のために誘拐犯と一対一で交換し、彼のために鋭さを隠し、彼のために、彼のために、彼のために…すべては彼のためだった。
しかし、この七年間は結局、彼にとって何の価値もなかった。
坂井晴美は鼻をすすり、杏色の瞳に涙を浮かべながら笑って言った。「藤原恭介、あなたを愛したなんて、私は目が見えていなかったのね」
藤原恭介は鏡越しに去っていく坂井晴美の背中を見つめ、彼女の言葉を聞いて、表情が少し恍惚とし、そして壁にもたれかかった。
——藤原恭介、あなたを愛したなんて、私は目が見えていなかったのね。
「ふっ……」
藤原恭介は低く笑ったが、この一件で、七年間彼を愛し続けた女性を完全に失ったことに気づいていなかった。
坂井晴美はトイレを出て、絶えず唇を拭いていた。
藤原恭介が水原美佳にキスした後で自分にキスしたと思うと、汚らわしくて死にそうだった!
坂井晴美は赤い目で大崎亜美を探し、彼女を引っ張って外に出た。
「晴美ちゃん、大丈夫?」大崎亜美は慌てふためいた。
坂井晴美は涙を流しながら、むせび泣きながら言った。
「何が大丈夫よ、私は元気よ」
坂井晴美はハイヒールを手に持って道を歩き、通行人の視線を無視して、ようやく決心したかのように叫んだ。
「もう藤原恭介なんて愛さない、二度と!愛さない!」
この道のりはあまりにも痛すぎた。
男のために自分を粗末にするなんて、愚かすぎる!
もう藤原恭介には二度と会いたくない。
生活を正常に戻し、花は花らしく、木は木らしくあるべきだ。
大崎亜美は追いついて坂井晴美を抱きしめた。坂井晴美は声を出さずに泣き、全身が震えていた。大崎亜美は心が痛んだ。
坂井晴美は自分がどうやって帰ったのか覚えていなかった。
次に目覚めたのは翌日の午後だった。
坂井晴美は恍惚とした表情でベッドに座り、片手で太陽穴を押さえ、ひどい頭痛を感じていた。
ピン——
携帯が鳴り、坂井晴美は顔を向けて、冷静に携帯を手に取り、ニュースを見て沈黙した。
【本日、藤原グループ社長藤原恭介、水原家のお嬢様と共に藤原グループ傘下の化粧品新製品発表会に参加。】
坂井晴美は動画を開いた。水原美佳は晴美ちゃんのような笑顔で藤原恭介の腕に手を添え、時々メディアに手を振って挨拶し、二人はとても似合っているように見えた。
坂井晴美は携帯をきつく握り、目が痛くなった。
結婚して三年、藤原恭介は一度も彼女をイベントに連れて行かなかった。今や彼らが離婚したばかりなのに、彼はもう急いで皆に自分の愛する人を紹介している。
昨夜、洗面台の前で藤原恭介が無理やりキスした姿が脳裏によぎり、坂井晴美はただ皮肉に感じた。
突然、ドアがノックされ、坂井晴美は目を上げ、杏色の瞳は冷静で、悲しみを隠して言った。
「どうぞ」
ドアが開き、坂井弘樹は濃紺のスーツ姿で、笑顔で言った。
「晴美ちゃん、昨夜のお父さんとの約束、忘れてないよね!」
坂井晴美は一瞬固まった。
どんな約束?






















































