第1章

「優子、離婚しよう」

佐藤久志の言葉は水原優子の心を刺し貫く刃のようだった。

「これが離婚協議書だ。時間があるときに見ておいてくれ」佐藤久志は引き出しから一枚の書類を取り出し、水原優子の前に差し出した。

水原優子の胸は激しく上下し、頭の中がぐるぐると回り、目の前が揺れていた。

震える手でその書類を受け取ったが、たった一枚の薄い紙なのに、千斤もの重さを感じ、息苦しくなった。

水原優子は自分の手に握りしめた診断書を思い、心まで握りつぶされるような感覚に襲われた。

「すまない優子、最初は三年と約束したけど、状況が変わった。一年早く終わらせたいんだ」

「沙耶香ちゃんが帰ってきたの」

水原優子は急に顔を上げて佐藤久志を見つめた。なるほど、そういうことか。

水原優子は手の中の妊娠検査報告書をきつく握り、背中に隠した。

今日は二人の結婚記念日。彼に「贈り物」を渡すつもりだったのに、まさか彼からこんな「サプライズ」があるとは。

「わかったわ、後で見るわ」水原優子は俯いて、目に浮かぶ涙をこらえた。今、泣くわけにはいかない。

「約束を破ってすまない。何か要求があれば言ってくれ、できる限り応えるから」

佐藤久志の声は相変わらず優しかったが、水原優子の耳には冬の夜の氷のように冷たく響いた。

昨夜の情熱的な時間を思い出し、水原優子は氷の檻に閉じ込められたような感覚に襲われた。

結婚して二年、彼の愛情は惜しみなく注がれ、周りの人々からも彼女は良い夫を得たと羨まれるほどで、水原優子自身もそう思い込んでいた。

すべては自分の幻想に過ぎなかったのだ。夢から覚める時が来たのだ。

「わかったわ」水原優子は掠れた声で頷いた。これ以上話せば、涙が止まらなくなるのが怖かった。

離婚協議書を手に取り、立ち去ろうとした彼女を佐藤久志が呼び止めた。

「おじいさんのことだけど……」

「おじいさんには私から話しておくわ、心配しないで」水原優子は佐藤久志に背を向けたまま、ついに涙があふれ出した。

「結婚する時、君は心に想う人がいると言っていた。それもおじいさんに話してくれれば、おじいさんも反対しないだろう」

佐藤久志はさらに付け加えた。

「わかったわ」水原優子は苦笑した。長年好きだった男性のこと……

「優子、どうしたんだ？」佐藤久志は背を向けたままの水原優子の肩が震えているのを見て眉をひそめた。

彼は急いで彼女の前に回り込んだ。

水原優子は驚いて、手を背中に隠した。妊娠検査報告書を見られたくなかった。

「どうしたんだ？なぜ泣いてる？」

佐藤久志はようやく気づいた。水原優子の小さな顔は紙のように青ざめ、涙の跡が残り、うさぎのような大きな瞳には涙がたまっていた。

「大丈夫よ」水原優子は慌てて涙を拭った。

「どこか具合が悪いのか？医者を呼んで診てもらおうか」

水原優子は彼の心配そうな言葉を聞きながら、鼻の奥がますます痛くなった。

「必要ないわ、少し寝れば大丈夫」医者が来れば、妊娠のことは隠せなくなる。

「優子、嘘をついているのがわからないと思っているのか？」佐藤久志の瞳は深く沈んでいた。

「本当に大丈夫よ、ただ生理が来て、お腹が痛いだけ」水原優子は無理して佐藤久志に微笑んだ。

佐藤久志は水原優子をしばらく見つめ、彼女の手が不自然に背中に隠されているのに気づいた。

「手に何を持ってる？」

「何でもないわ、ゴミよ」水原優子は紙を丸めて近くのゴミ箱に捨てた。

佐藤久志はそれ以上何も言わず、水原優子を抱き上げて二階の部屋へ連れて行った。

「自分で歩けるわ、そんなことしなくても」水原優子は暴れて佐藤久志に離してもらおうとした。

「おとなしくして、無理するな」佐藤久志は彼女を放す気配はなかった。「後で医者を呼んで診てもらおう」

「医者を呼ぶ必要はないわ、少し寝れば良くなるから」水原優子は彼の胸に顔を埋め、彼の優しさに最後の贅沢を味わった。

水原優子はベッドに横たわり、二人が結婚を決めた時のことを思い出していた。

彼女は普通の家庭に生まれた女の子で、母親は看護師、父親はギャンブラーだった。

彼女の母親が心臓発作を起こした佐藤のおじいさんと佐藤のお父さんを救ったことで、彼らは佐藤家の命の恩人となった。

数年前、彼女の母親が末期がんで死期が迫った時、娘のことを心配し、佐藤家に託すことにした。

佐藤のおじいさんが一存で、水原優子と佐藤久志の婚期を決めたのだ。

「優子、僕たちは協議結婚をしよう。三年を期限として。僕には好きな人がいるんだ、君も知っているだろう」

あの時も、佐藤久志はこんな優しい口調だった。

「いいわよ、安心して。私も好きな人がいるから、期限が来たら執着したりしないわ」

水原優子はさりげなく振る舞ったが、心臓は痛みに満ちていた。

当初は密かな希望を抱き、佐藤久志が自分を好きになることを願っていた。

しかし今となっては、元の道に戻るしかないのだ。

「優子、彼を探しに行くのか？」佐藤久志は水原優子のベッドの端に座り、彼女の目を見つめて尋ねた。

「誰を？」水原優子は困惑して顔を上げた。

「君が好きだという人だよ」佐藤久志は水原優子をじっと見つめ、彼女の答えを待った。

水原優子は黙り込み、何も言わなかった。