第1章
水原愛未の視点
よし、愛未。深呼吸して。父さんの新しい運転手さんはもうすぐここに来るはず。今夜の交流会で恥をかかないようにするのよ。あそこの人たちはあなたのこと、高級品と安物の区別もつかない田舎者だってもう思ってるんだから。まあ、正直言って、あながち間違いでもないんだけど。でも、それは今はどうでもいい。
五分間で三度目になるスマホをポケットから取り出す。午後六時四十七分。右手で、このドレスの裾をいじってしまう。同僚に「デザイナーものよ」と太鼓判を押されて借りたものだけど、正直、私には違いなんてさっぱり分からない。履いているヒールが駐車場のアスファルトをカツカツと鳴らし、私は行ったり来たりと歩き回る。下唇をきゅっと噛んだ。
六時四十七分。最悪。本当に最悪。この世界に自分もふさわしい人間だって証明できる、たった一度のチャンスなのに、それに遅刻するなんて。
繁華街のテックキャンパスの駐車場が、私の周りに広がっている。ぽつりぽつりと高級車が停まっている他は、ほとんど空っぽだ。近くのガラス張りのビルが、夕日を反射してきらめいている。父さんは今夜のことをすごく楽しみにしてた。あの暗号資産投資で一発当ててから、必死にこのT市の人たちに馴染もうとしてる。でも、向こうは私たちのことを、まるでサーカスの見世物みたいに見てる。田舎出身の、運良く儲けただけの石油採掘作業員。緊張するとすぐ方言が出ちゃう、その娘。
その時、彼が目に入った。
すらりとした黒い電気自動車の隣に立つ、背の高い男性。百九十センチはありそうだ。チャコールグレーのカシミアセーターに、体に合いすぎているダークジーンズ。広い肩幅は、彼が体を鍛えていることを思わせるけど、見せびらかすための筋肉じゃなくて、もっと、しなやかな強さを感じさせる。
そして、その顔。思わず息をのむような顔立ち。シャープな顎のラインに、無造作に流れる漆黒の髪。そして、この距離からでも疲れが見て取れる、深い黒の瞳。
理不尽なほどの美貌。目のやり場に困るほどの端正な顔立ち。
でも、私の注意を引いたのは彼の容姿じゃなかった。彼を車に追い詰めるようにしている、あの女性の存在だった。
私は目を細める。何かがおかしい。スマホを握る手に力がこもった。
女性は四十歳くらいだろうか、シャープなパワースーツを着て、書類の束を彼の顔に突きつけるようにして持っている。その声は駐車場を横切ってこちらまで届き、切羽詰まって、いら立っているのが分かった。
男性は疲れきった様子で、後ずさろうとしているが、すでに車のドアに背中を押し付けられている。たぶん、父さんの新しい運転手さんだ。
「早川さん、本日すでにお母様から三度もお電話が。今夜の会食に出席なさらないのであれば、明日は自らオフィスにいらっしゃると……」
「佳織、言ったはずだ……」
「ええ、ええ、存じております。ですが、非常に強いご意向でして。すでにあちらにいらっしゃる五名の女性のプロフィールも私の方に送られてきています。ほら、こちらの方は名門大学のご出身で、こちらの方はお父様がこの辺りの土地の半分を所有していて、そしてこの方は……」
何なの、これ。失礼すぎる。彼女は彼の上司? それとも、ヤバい元カノとか? 待って、彼は困ってる。すごく、困ってるように見える。
考えるより先に、足が動いていた。脳が追いつく前に、ヒールがアスファルトを性急に叩き、私はずんずんとそちらへ向かって歩いていた。彼女が言った「早川さん」という名前も、頭に入ってこない。私に見えるのは、助けを必要としている人、ただそれだけ。
「ちょっと! その人を放してあげなさいよ!」
二人は同時に振り向き、私を凝視した。女性の口がぽかんと開く。あの深い黒の瞳が私の目と合い、一瞬、何かがきらめいた。面白がってる?
私は二人の間に割って入り、彼女から彼を隠すように立つ。
「あなたが何を売っているのか知りませんけど、彼が興味ないのは明らかでしょう。立ち去ってください。でなければ、警備員を呼びますよ」
女性は完全にショックを受けた顔で、彼の方を見た。「あの、私は……」
私は腰に手を当て、一歩も引かずに、自分のできる限りの鋭い目つきで彼女を睨みつけた。心臓はバクバクしているけど、引き下がるつもりはなかった。
「大丈夫ですか? この人に何かされてました?」
初めて、ちゃんと彼の方を向く。ああ、もう。近くで見ると、さらにハンサムだ。嵐の海みたいな瞳。それに、いい匂いがする。すごく、いい匂い。高級なコロンと、柔らかな上質な生地の香り。
待って。集中よ、愛未。
「あなた、私の父の新しい運転手さんですよね? 水原拓海の?」
彼は瞬きをした。その瞳に、私には読み取れない何かが揺らめく。そして、口の端にゆっくりと笑みが浮かんだ。
「君のお父さんの、運転手?」
「ええ! こんな目に遭わせてしまって、本当にごめんなさい。あの、父さん、あなたに十分なお給料を払ってないんじゃないかと思って。気前はいいんですけど、ほら、まだT市のやり方を勉強中なので。田舎の出身だから……」
彼はちらりと、あの女性に視線を送った。ほんのわずかな合図。彼女は何か言いたそうに口を開いたが、彼の表情を見て、ぴしゃりと口を閉じた。
私の頭は高速で回転していた。目の前のこの人は、明らかにストレスを抱えてて、攻撃的な女に絡まれてて、たぶんもっといい仕事が必要なんだ。父さんはいつも言ってる。いい人を見つけたら、できる限り助けてやれって。
「あの、こうしませんか。代わりに私のために働いてくれませんか? 年収は二千万円、お支払いします。運転手さんにしては、破格の金額でしょ?」
私は下唇を噛み、両手を握りしめたり開いたりを繰り返す。心の中では「愛未、あなた一体何やってるの!」って絶叫してるけど、自信があるように見せようと必死だった。
彼の眉がわずかに上がり、あの微笑みの気配がまだ唇に残っている。「年収二千万円? それは、随分と気前がいいですね」
「うちのめちゃくちゃなスケジュールに付き合うて、こないな気取った社交イベントに全部運転して連れてってもろて、そんで私のはずかしい電話の中身も全部聞こえへんふりせなあかん。信じてや、一銭たりとも無駄にはさせへんから。でもなぁ、あんさんまともな人やし、今の状況よりもっとええ待遇受けるべきやで」
緊張で、私の関西弁が少しだけ顔を出す。ああもう、私ってなんて馬鹿みたいなんだろう。二千万円。それって、私の貯金のほぼ全部と、今年の給料からかき集められるだけのお金を足した額だ。でも、彼はすごく打ちひしがれているように見える。父さんはいつも言ってる、いい人を見つけたら助けてやれって。
「あの、とんでもない……」佳織がとうとう口を挟んだ。
「佳織、今後三ヶ月の俺のスケジュールをすべてキャンセルしろ。長期休暇を取る」
彼の声が、がらりと変わった。冷たく、命令的。その声に、背筋がぞくりとした。
彼女の顔には、驚愕がありありと浮かんでいた。「お待ちください、そんな……取締役会も、投資家との電話会議も、それに……」
「命令だ」
どうして彼は彼女を下の名前で呼ぶの? それに、なんでそんなに権威的な口調なの? もしかして、彼が彼女の上司? いや、そんなの筋が通らない。先はひどく𠮟られたじゃない?
彼は私の方に向き直り、あの魅力的な笑みを再び浮かべた。「契約成立です。いつから始めればいいでしょう?」
私は飛び上がらんばかりに喜んだ。「今すぐ! 三十分後にこのイベントに行かなきゃいけないの。運転できる?」
「問題ないと思います」
彼は、まるでそれが当たり前であるかのような、流れるような優雅さで運転席に向かう。彼の後ろで、佳織はまるで世界の終わりでも目撃しているかのように、手にした書類を、まるでそれが個人的に彼女を侮辱したかのように握りしめている。でも、彼がもう一度彼女の方に視線を送ると、小さく頷いた。
私は後部座席のドアを乱暴に開け、小さなハンドバッグをシートに放り込み、滑り込んだ。革は柔らかくてひんやりしている。これって本当に現実なのよね。私、人を雇ったんだ。この私が。いまだに安売り店で買い物をして、この街で暮らすのがやっとの、この水原愛未が。
「すごい、最高! ところで、私は愛未。水原愛未。あなたの名前は?」
彼は手慣れた様子で車を発進させた。まるで、これまで千回もやってきたかのように。「直樹。直樹でいいです」
わあ、この車の運転、すごく上手。なんていうか、すごくスムーズ。もしかして、しばらく高級車を運転してたのかな? でも待って、もっといい仕事が必要だったんじゃなかったの? どうやってこんな車を……まあいいか。私には関係ないことだ。
前のめりになって、前の座席の背もたれに腕をかける。「それで、直樹。運転手歴はどれくらい? この車、すごく乗り慣れてるみたいだけど」
「数年です」
私は眉をひそめる。「借りたの? それとも、まさか、とんでもないローンを組んでないでしょうね。いや、素敵だけど、こういう車ってものすごく値下がりするのよ。半額で、もっと実用的な車が買えたはずなのに」
「肝に銘じておきます」
「本気で言ってるのよ! お金は貯めなきゃ。この街にいると、金持ちに見せなきゃって気になるのは分かるけど、正直言って、 誰も気にしないわよ。まあ、気にする人もいるけど、そういう人たちは嫌な奴らだから。今夜のイベントにいる女たちみたいにね。私の靴を見て、きっと馬鹿にするわ。これ、ちなみに安売り店で買ったの。彼女たちが履いてるような、高級ブランド品じゃない。でも、知ったこっちゃないわ」
バックミラー越しに、彼の視線を感じた。面白がっているようだ。その瞳には今、さっきはなかった温かい何かが宿っている。
「心配しないで、直樹。私の下で働く方が、あなたが前にやっていたどんな仕事よりずっといいから。約束する。私はめちゃくちゃな上司にはならないつもり。まあ、少しは変わっているかもしれないけど、いい意味でね。それに、福利厚生もちゃんとするから。健康保険は必要? 私がなんとかするわ」
「心配してくれてありがとう、愛未さん。しっかり予算管理するようにします」
少しの沈黙の後、彼が尋ねた。「今夜のイベントは何なんでしょう?」
私はため息をつき、シートに深くもたれかかった。「交流会よ。テック業界の人たちのための、ネットワーキングの集まり。父の会社が、いくつかの大手企業と提携契約を結ぼうとしてるの。私はにこにこして、馬鹿なことを言わないようにしてればいいんだと思う」
「君なら大丈夫でしょう」
私は笑ったが、その声は苦々しかった。「あなたはこういう場にいる私を見たことがないから。この前なんて、誰かのデザイナーバッグをうっかり『お洒落なハンドバッグですね』って言っちゃって、十分間も笑いものにされたのよ」
繁華街の夕暮れの通りを抜け、彼が築き上げるのを手伝ったり、あるいは競い合ったりしてきた財閥が収まるビル群を通り過ぎながら、早川直樹は二人の人生を変えることになる決断を下した。
これを、楽しもう。続く限り。
借り物のドレスと安物の靴を履き、純粋な優しさを持つこの少女、水原愛未は、彼が人生を通して探し求めてきたものを、たった今、差し出してくれたのだ。ただの直樹として見られるチャンスを。早川家の人間でも、億万長者でも、社長でもなく。ただの一人の人間として。
そして、もし彼女が、彼を「救う」ために年収二千万円を払って自分の運転手にしたいと言うのなら?
まあいい。もっと割に合わない取引もしてきた。
「心配しないで、愛未さん。この契約は、俺たち二人にとって、とてもうまくいくような気がします」
「でしょ? 絶対いい考えだと思ったの!」
バックミラーの中で、二人の視線が一瞬交わる。彼女の瞳は、興奮と安堵で輝いている。彼の瞳は、秘密と、そして希望にも似た何かを宿して、深く暗い。
彼らの後ろで、駐車場が遠ざかっていく。松野佳織がそこに立ち、携帯電話を手にしている。おそらく、会社の役員たちが、自分たちの社長はとうとう正気を失ったのではないかと訝しむことになるであろう、社内メモをすでに起草している頃だろう。
おそらく、彼は本当に正気を失ったのだ。
