第2章

水原愛未の視点

トーストをかじりながら玄関のドアを開けた瞬間、思わずむせそうになった。

そこに立っていたのは直樹だった。深い青のセーターにカーキ色のパンツ、髪は完璧に整えられている。朝の柔らかな陽ざしに包まれた彼の姿は、ため息が出るほど素敵で、つい見つめてしまった。

「わ、時間ぴったり! 入って入って。あと二分だけ待って。コーヒー飲む?」

「いえ、大丈夫です」

片足でぴょんぴょん跳ねながら靴を履こうとしつつ、彼に中に入るよう手で合図する。危うくソファに顔から突っ込むところだった。

「それでね、昨日の夜、運転手の給料を調べてみたの。あなたのこと、ちょっと安く見積もりすぎたかも。運転手の年収は平均って600万円くらいみたい。でも安心して、給料は下げないから。約束は約束だし」

彼の口元がぴくりと動く。「随分と義理堅いんですね」

「でしょ? 父がいつも言ってるの、誠実さが大事だって」私は早口でまくしたてながら、バッグを掴んでスマホをチェックする。「それに、昨日は助かったし。あなたが運転してくれるって言ってくれなかったら、ものすごく遅刻してた」

直樹はただそこに立っているだけ。すごく落ち着いていて、どこか面白がっているような気配が、私をさらに緊張させた。

ドアに鍵をかけ、彼について車へ向かう。彼は世界で一番自然なことみたいに、後部座席のドアを開けてくれた。

車は滑るように静かに高速道路へ合流する。窓の外を流れていくT市の景色を眺めていると、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

「正直に言ってもいい?」

落ち着いた声が返ってくる。「もちろん」

「今朝のミーティング、ちょっと緊張してるんだ。上司に新しいクライアントへのプレゼンを任されてて、それで……私にできるか、自信がなくて」

唇を噛み、指でバッグのストラップをいじる。どうしてこんなことを彼に話しているんだろう。ほとんど知り合いでもないのに。

「どうしてそう思うんですか?」

乾いた笑いが漏れた。「わからない。私、名門大学じゃなくて、普通の大学出身だから。ちゃんとした経歴がないの。時々、周りのみんなに場違いだって思われてる気がして」

「学歴が価値を決めるわけではありません。結果が全てです」彼の口調は事実を述べているかのようだ。「仕事ができるなら――このご時世にまだ雇われているということは、おそらくそうなのでしょうが――愛未さんはいるべき場所にいるんですよ」

「ほんと? そう思う?」

「はい、間違いありません」

どうしてこんなに確信に満ちた言い方ができるんだろう。まるで意見じゃなくて、事実を告げているみたい。バックミラー越しに私を見るその視線が、私を安心させる。変な言葉だけど、これよりしっくりくる表現が見つからない。

深呼吸すると、肩の力が抜けた。

「ありがとう、直樹。あなた、激励の言葉がすごく上手だね。ライフコーチとか考えたことない?」

彼の口角が上がる。「リストに加えときます」

車が私の会社に着く。荷物をまとめていると、あるものが目に留まった。

直樹の手がハンドルに置かれている。その手首で、腕時計が朝の光を浴びてきらりと光った。

私は彼の腕を掴んだ。「待って。それ、もしかして高級時計?」

彼は視線を落とす。「ええ」

「直樹! うそでしょ。まさか自分で買ったなんて言わないでよね。誰かにもらったとか、拾ったとか、そういうことにしてよ……」

彼の腕をぐっと引き寄せ、目を細める。研磨は完璧に見える。ずしりとした重みも本物みたい。秒針は水が流れるように滑らかに動いている。

「買いましたよ。なぜです?」

「だって、偽物だって7万5千円くらいするんだよ! それに、絶対偽物だってバレるから!」身を乗り出す。「ほら、ここの……うーん、正直どこもおかしいところは見えないけど、でも信じて。時計に詳しい人が見れば一発でわかるから」

彼は笑いをこらえようとしている。「なるほど」

もう、この偽物、すごくよくできてる。きっと大金を使ったに違いない。かわいそうな直樹。「高品質なレプリカですよ」なんて口車に乗せられて、悪徳業者に騙されたんだ、きっと。

「これを着けて私を迎えに来ちゃダメ、わかった? 会社の同僚に見られたらどうするの? 頑張りすぎてるって思われちゃうよ。普通の時計にしなよ。7,500円くらいで、結構いい感じのがあるから」

「代わりに7,500円の時計をしろ、と?」

「そう! あなたのためを思って言ってるの。T市にはお金持ちのフリをしてる人なんて掃いて捨てるほどいるんだから。その一人になっちゃダメ。自分らしく、本物でいなきゃ」

彼の表情に何かがよぎる。「本物、ですか」

私は彼の手首を離した。彼は何か大きな感情を押し殺しているように見えた。

私は彼の肩をぽんと叩く。「これに関しては私を信じて。ここに長く住んでるからわかるの」

車を降りようとした時、ふと彼のセーターが再び目に入った。手を伸ばして袖に触れてみる。信じられないくらい柔らかい。

「待って。それ、カシミア?」

「はい」

「どこで買ったの? セール品だって言って」

彼は一瞬、間を置いた。「高級ブランドのものです」

私はすぐさまスマホを取り出してググる。表示された価格帯を見て、顔が青ざめた。

「直樹! このブランド、ありえない! 八割引とかで買ったんでしょ、ね?」

「まあ、そんなところです」

私は今度は本気になって、再び彼の手を掴んだ。「聞いて。プロフェッショナルに見せたいのはわかるけど、こんな風にお金を無駄遣いしちゃダメ。あなたは私と同じ、労働者階級なんだから。まあ、私は昔の話だけど。誰も知らないようなデザイナーズブランドなんかに散財しないで、貯金しなきゃ」

彼は貯金を全部この手のものに注ぎ込んでしまったに違いない。私が助けてあげなきゃ。

彼の声が柔らかくなる。「心配してくれてありがとう、愛未さん」

私の頬が熱くなる。「まあ、友達なら当然でしょ?」

「そうですね」彼が微笑むと、私の心臓が跳ねた。

ようやく車から降りて、肩越しに手を振る。「じゃあ、お昼に! 十二時半きっかりね!」

ラーメン屋はこぢんまりとしていた。壁には色あせた芸能人のサイン色紙が貼られ、カウンター席と小さなテーブル席がある。直樹は店の暖簾をくぐって、明らかに場違いな様子だ。

「私、この店大好きなの。近くで一番美味しいラーメンだし、チャーシュー麺でたったの千円! これって本当にお得でしょ」

彼はあたりを見回す。「狭いけど、活気がありますね」

「ああ、もう、あなたって高級な店でしか食事しないタイプでしょ? 言っとくけど、高いからって美味しいとは限らないのよ。父が教えてくれたんだ」

私は彼をカウンター席に案内する。店主が湯気の立つラーメンを作りながら「いらっしゃい!」と声をかけてくれた。直樹は券売機の前で迷いながらメニューを眺めている。

「あなたのこと、教えてよ。どこ出身なの?」

「T市近郊です」

「へえ! 東海岸! かっこいい。大学は行った?」

「LAH専門学校に行きました」

危うく水を吹き出しそうになった。「うわ! それってすごい! 何を勉強したの?」

「コンピューターサイエンスです」

「じゃあ、なんで運転手なんかしてるの? 別にそれが悪いってわけじゃないけど! でも、そんな学位があるなら、テック業界で働けるんじゃない?」

彼の表情に何かがきらめく。「複雑なんです。まあ、気分転換が必要だった、とだけ言っておきましょう」

私は頷く。「わかるよ。時々、ただ離れることが必要になる時ってあるよね? 人生って、手に負えなくなることがあるし」

たぶん、テック業界で何かひどいことがあったんだろう。解雇されたとか? 燃え尽きたとか? 専門学校の卒業生って、ものすごいプレッシャーにさらされてるに違いない。

ラーメンが運ばれてくる。一口かじると、突然、目の奥が熱くなってきた。自分でも理由はわからない。

私の声は静かになる。「十歳の時に母が死んだの。癌だった。それからは父と二人きり」

直樹は箸を置き、私に全神経を集中させる。私は目の前のラーメンを見つめたままだ。

「父は私に良い暮らしをさせようと、必死に働いてくれた。摂氏100度みたいな暑さの石油田で、一日十六時間も。文句一つ言わなかった。一度も。油と泥にまみれて帰ってきても、いつも笑って、今日一日どうだったって聞いてくれた」

声が震える。「だから、父を誇らしい気持ちにさせなきゃいけないの。父の犠牲が全部無駄じゃなかったって証明しなきゃ。私がただの、場違いな田舎の女の子じゃないって」

「愛未さん、俺を見てください」

顔を上げる。彼の表情には、今まで見たことのない何かが宿っていた。純粋な優しさ。

「愛未さんのような娘さんを育てた人なら誰だって、とてつもなく誇りに思うはずです。あなたは昨日、見知らぬ人を守った。他人の懐事情を心配してあげる。あなたは親切で、誠実で、勇敢だ。それは稀有なことです」

心臓を打ち抜かれたような気がした。どうして、彼にこう見つめられると、自分には見られる価値があるんだって思えるんだろう?

「本当にそう思う?」

「はい、そう思いますよ」迷いのない声だった。

私たちは数秒間、見つめ合った。ラーメン屋の喧騒が遠のいていく。彼と、私の高鳴る心臓だけがある。

顔が燃えるように熱くなって、咳払いをした。「えっと、ラーメン、冷めちゃうよ」

彼は微笑む。「そうですね」

直樹が愛未の会社の前に車を停める。彼女がバッグの中を漁っていると、誰かが出てきた。高そうなスーツを着た、四十歳くらいの男性。明らかにテック業界の役員だ。

彼は直樹を見て固まった。まるで幽霊でも見たかのように口をぽかんと開けている。そして、こちらに歩いてきた。

「早川様……」

直樹の顔がさっと向き、視線が鋭くなる。彼は一言も発しないが、彼が放つオーラだけで、男は即座に口をつぐんだ。

直樹がほんのわずかに首を横に振る。明確に、断固として。

男はそこに立ち尽くし、ひどく混乱しているようだったが、理解はしたらしい。彼はさっと視線をそらし、足早に去っていった。

愛未はようやくスマホを見つけて顔を上げる。「何? 誰かから電話?」

「いえ、時間を確認していただけです」

「お昼、ごちそうさま、直樹。今日は楽しかった。すごく、楽しかった。あなたって話しやすいね」

彼は愛未を見つめている。「こちらこそ」

愛未はドアを押し開け、手を振って別れを告げ、ビルの中へ入っていく。役員のパニックに陥った表情には、全く気づかなかった。

直樹は彼女が中に消えていくのを見届けた。あの人は山崎昌弘で、事業開発担当の副社長だ。彼を数え切れないほど見てきた人物。

このゲームは思ったより危険だ。だが、それ以上に面白い。

愛未が偽物だと思っている腕時計に目をやり、口元が弧を描く。外では、役員が遠くに立ち、スマホを手に、画面の上で指をさまよわせている。メッセージを送って尋ねるべきか?

やがて、彼はため息をつき、スマホを元に戻した。「ボスのプライベートに口出しする筋合いはないな」

しかし、彼の顔はまだ混乱していた。あれは早川直樹、世界で最も若いテック業界の億万長者の一人だ。なぜ彼が、ごく普通の女性を職場まで送っているのだろう?

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