第3章

水原愛未の視点

パソコンの画面をぼんやりと見つめていると、その音が聞こえてきた。あのヒールの音。カツ、カツ、カツ。

鈴木杏奈。

「ねえ、愛未。今度の土曜日、誰が和食料亭『銀杏庵』の予約を取れたと思う?」

顔を上げずに応える。「よかったわね」

彼女は私のデスクに寄りかかり、自分の爪を眺めている。「でしょ? 彼氏にコネがあってね。あそこ、予約取るの不可能じゃない。予約リスト、三ヶ月待ちとかなのよ」

彼女は言葉を切った。その視線が私のシャツに向けられているのを感じる。

「あなたもいつか行ってみたらいいのに。あ、でも一人15万円くらいするんだった。ワインは別でね。あなたにはちょっと高いかな?」

キーボードを打つ指が止まる。

「払えるわ」

「もちろん払えるわよね! そういう意味じゃなくて……とにかく、誘ってあげたいけど、うちはカップルで行くだから。それとも、あなたのあの運転手さんでも連れてく?」

その言い方。まるで汚いものでも口にするかのように。

隣のデスクの同僚が口を挟んだ。「愛未さん、この子の言うことなんて気にしちゃだめだよ。ただの性悪だから」

杏奈は呆れたように目を白黒させる。「別に。現実的な話をしてるだけじゃない」

彼女は去っていく。私は画面を見つめる。文字が滲んでいく。一回の食事で30万円。彼女はまるで三千円みたいに言う。

そのお金を父の会社に回すべきか、計算してしまう自分がいる。

この気持ちが嫌いだ。彼女に自分がちっぽけだと感じさせられるのが、嫌でたまらない。

五時四十五分に車に着くと、直樹は私を一目見ただけで、すべてを察したようだった。

彼がドアを開ける。私は必要以上に強く、バッグをシートに放り投げた。

「何か嫌なことでもありましたか?」

「もう、本当に嫌! あの女! 食事に平気で30万円も使うなんて」

「『銀杏庵』、ですか」

私は瞬きする。「知ってるの?」

「話には聞いています」

「そう。めちゃくちゃ高級な店。ミシュラン三つ星で、予約は不可能。杏奈がそれを自慢してきたの。しかも、冗談みたいに私の『運転手さん』であるあなたを連れて行ったらって」

直樹の手が、一瞬、ハンドルを握ったまま固まる。

「行きたいですか?」

乾いた笑いが漏れる。「まあ、行きたくない人なんていないでしょ? でも、今はそんな余裕ない。父の会社のために貯金してるし」

沈黙。T市の夕日が、窓の外を赤く染めていく。

「もし私が予約を取れると言ったら、どうしますか?」

私は振り返る。「直樹、冗談やめて。取れるわけないじゃない……」

「オーナーを知っているんです。土曜日の席なら、取れます」

「だめ。だめだめ。お願いだから、何か違法なことしたりしないで。誰かに脅迫するとか。そんなことされたら、私……」

私は身を乗り出し、彼のシートの背を掴んだ。

「電話を一本、かけるだけです」

「電話? 直樹が『銀杏庵』に電話しただけで……」

「見ていてください」

彼はもうスマートフォンを取り出している。車は赤信号で止まった。彼がダイヤルする。

「信介か? 直樹だ」

くぐもった声が聞こえる。

「ああ、久しぶりだな。頼みがあるんだが。土曜の七時に二人、席を用意してくれないか」

間。

「満席なのは分かっている。頼む」

また、間。

「助かる。じゃあな」

彼は電話を切った。

私は、ただ口をあんぐりと開けていた。

「今……どうやったの?」

彼は肩をすくめる。「言ったでしょう。オーナーを知っていると」

「うそでしょ。直樹、何をしたの? 何か約束したとか? 借金したの? お願いだから、腎臓を売ったなんて言わないで!」

彼は、本当に笑った。心から。愛想笑いじゃない、本物の笑い声だ。

「愛未さん、約束します。腎臓は二つともありますよ」

「笑いごとじゃない! もしあなたがトラブルに巻き込まれたら?」

「愛未さん。落ち着いて。ただの食事です。法律は破っていませんし、臓器も売っていません。友人に頼み事をしただけです」

私は目を細める。「田中信介と友達なの? あの『銀杏庵』のオーナー田中信介と?」

「何度かお会いしたことがあります」

「どこで? どうやって?」

「仕事で」

「『銀杏庵』で働いてたの!?」

「いえ、正確には。少し、複雑でして」

信号が青に変わる。私はシートに深く沈み込んだ。頭がショートしそうだ。

私の運転手さんが、田中信介を知ってる? 一体どういうこと?

土曜日の夜。『銀杏庵』の木造の建物は、夕闇の中、風情豊かに佇んでいた。石灯籠に灯された灯りが庭園を柔らかく照らし、季節の草花が影を落としている。

私なりに一番いいワンピースを着てきた。淡い青色の、セールで買った一着だ。鏡を三回はチェックした。手のひらの汗が止まらない。

直樹がドアを開けてくれる。ダークグレーのスーツを着た彼は、まるで雑誌の表紙から抜け出してきたかのようだった。

「私、場違いかも。みんなもっと……」

「とても綺麗ですよ」

顔が熱くなる。セールで買ったワンピースに目を落とす。

「お世辞でしょ」

「思ってもいないことは言いません」

出迎えてくれたのは五十代くらいの、品のある紋付袴を身につけた仲居頭だった。彼は直樹を見ると、ぱっと顔を輝かせた。

「こんばんは、早川様……」

直樹の鋭い視線が、その言葉を遮る。男性は一度咳払いをして、言い直す。

「……直樹さん。お席のご用意ができております。こちらへどうぞ」

私は小声で尋ねる。「なんであの人、あんなに緊張してるの? 事前にそう要求した?」

「していませんよ」

他のスタッフも直樹に気づくと会釈している。ひそひそ話が聞こえる。みんなが私たちを見ているような気がする。

私たちの個室は奥の、静かな空間にあった。行燈の灯りが柔らかく、障子越しには庭の石灯籠が浮かび上がる。

仲居さんが献立を手渡してくれる。開いてみて、私は気づいた。

「この献立、値段が書いてない」

「こういうお店では普通ですよ」

「でも、何を頼めばいいの? もし間違ってすごく高いコースを選んじゃったら……」

彼は献立を置いた。「おまかせでよろしいかと思います。値段のことは気にせずに」

「でも、あなたのお給料でこんなの、無理よ!」

彼の声が、柔らかくなる。「私の懐事情はご心配なく。今宵は、あなたのための時間です」

こうして誰かに大切にされる感覚。慣れていない。父以外に、こんな風に扱ってくれた人はいなかった。

女将らしき、凛とした女性が現れる。

「早……直樹様、お酒は日本酒の取り合わせはいかがでしょう。素晴らしい大吟醸がございます」

直樹は頷く。「それでお願いします」

彼女が去った後、私は必死にスマホで検索する。そして顔が真っ白になった。

「直樹! この日本酒、一本十万円もするのよ! じゅ、十万!」

彼はお茶を一口飲む。「特別な日ですから」

「何が特別なの!?」

彼は湯呑みを置いた。その瞳が、まっすぐに私を捉える。

「何年かぶりに、素の自分でいられる人と食事をしている。それが、特別な理由です」

心臓が跳ねる。どこを見たらいいか分からない。

「私……あなた……それは……」

八寸が運ばれてくる。器はまるで芸術品のようだ。

一口食べて、私は目を閉じた。「すごい……。こんなの、今まで食べたことない」

彼は私を見て、微笑んでいる。「よかったです」

「本当に、こんなことしてくれなくてもよかったのに。定食屋でも同じくらい嬉しかったわ」

「分かっています。だからこそ、そうしたかったんです」

「どういう意味?」

「ここのお客様のほとんどは、体裁しか気にしていない。名の知れた料亭で食事している自分を見せたいだけです。でも、あなたは違う。父親のためなら、千円の定食のほうがいいと心から思う。そういう人は、滅多にいません」

「そうかしら? 家族が一番だって、普通に思うけど」

彼の瞳に、深い色が宿る。「そうですよ。そして、それがどれほど新鮮なことか、あなたには想像もつかないでしょう」

視線が絡み合う。心臓がうるさい。行燈の灯りの中で、彼の瞳は星を宿しているように見えた。

「おかしいわよね。杏奈たちは、私がお金持ちの家に育ってないから、仲間じゃないって思ってる。でも、あんな人たちみたいになるくらいなら、仲間になんてなりたくない。冷たくて、計算高くて、人よりもブランドバッグを大事にするような人には」

「なら、ならなければいい。ありのままの、愛未さんでいてください」

私は力なく笑う。「言うのは簡単よ」

「いいえ、簡単じゃない。世界が『お前は不十分だ』と言い聞かせてくる中で、自分自身でいること。それには、勇気がいります」

出口に向かって歩いていると、白い割烹着に和服姿の料理長が現れた。田中信介だ。

「直樹! また会えて嬉しいよ!」

直樹の体がこわばる。信介は明らかに気づいていない。

「早川テックの調子はどうだ? 記事で読んだが……」

直樹が軽く咳払いをする。信介の目に、さっとパニックの色が走った。

「いや、つまり、直樹。会えてよかったよ、直樹。食事は楽しんでくれたかい!」

私は彼に微笑みかける。「田中さん! ありがとうございました! お料理、本当に素晴らしかったです!」

彼はほっとした顔になる。「それはようございました、お嬢さんは……」

「水原です。水原愛未です」

彼は直樹にちらりと目をやる。「そうですか。水原さん、直樹さんのご友人なら、いつでも大歓迎ですよ」

駐車場に出ると、T市の夜空は星で満ちていた。直樹は後部座席ではなく、助手席のドアを開けた。

「後ろでいいのに……」

「隣に乗ってください」

私は乗り込む。助手席は、いつもと違う感じがする。もっと、親密な。

十分ほど、どちらも口を開かなかった。私は彼の横顔を盗み見る。

「今夜はありがとう。魔法みたいだった。どうやったのかは分からないけど、本当にありがとう」

車が赤信号で止まる。直樹が私の方を向いた。

「愛未さん」

「うん?」

「もし、私がこれまでのどんな仕事よりも、あなたが提供した仕事を楽しんでいると言ったら、プロとして失格でしょうか」

私の息が止まる。「もし、私があなたのことを、ただの運転手さん以上の存在として考え始めていると言ったら、雇い主として失格かしら」

彼の指が、ハンドルから離れ、私の手に重ねられる。温かくて、しっかりとした感触。触れた場所から、電気が走るみたいに何かが広がっていく。

「そう言ってくれるのを、待っていました」

私は手を引かなかった。彼の指を、そっと握り返す。

信号が青に変わる。窓の外では、T市の明かりが近づいてくる。私の心臓の音は、エンジン音よりも大きい。

この感覚。崖っぷちに立っているような。半分は恐怖に震え、半分はスリルに胸を躍らせている。

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