第4章

水原愛未の視点

私はクローゼットの前に立ち、レンタルした黒いパーティードレスを見つめている。スマホの画面には、今夜のIT業界交流会の招待状が表示されていた。

直樹を連れて行く? それとも、やめておく?

彼はただの運転手。でも、本当は違う。手も繋いだ。彼、私がいると自分らしくいられるって言ってた。それって、一体どういう意味なの?

スマホが震えた。父さんからだ。

「父さん、今夜の交流会、少し遅れるかも」

「問題ないさ、愛未。ただ、気をつけてな。例の新しい運転手はどうだ? 信頼できるやつか?」

「信頼できる。すごく信頼できるわ」私は一瞬ためらう。「実は父さん、今夜のイベントに彼を連れて行きたいの」

「運転手を連れてくるだと? あそこは上流階級の集まりだぞ、本気か?」

「彼はただの運転手じゃないの。私によくしてくれる」

電話を切る。深呼吸。指がスクリーン上を飛ぶように動いた。

「今夜のイベント。一緒に来ない? 運転手としてじゃなくて、私のデート相手として。まともな服を着てきてくれれば、それでいいから。もし誰かに聞かれたら、あなたは私の彼氏ってことにする。あなたが見下されるのは嫌だから」

送信ボタンを押した瞬間、心臓が激しく高鳴った。

彼氏? 私たち、まだそんな関係を定義したわけでもないのに。でも、あの嫌味な連中の前で、彼が見下されるのだけは嫌だった。

直樹からの返信はすぐ来た。「光栄です。何時にお迎えにあがればいいですか?」

六時半にドアベルが鳴った。ドアを開けて、私は凍りついた。

チャコールグレーのスーツをまとった直樹がそこに立っていた。その生地は廊下の光を捉え、完璧に仕立てられているのがわかる。白いシャツにネイビーのネクタイ、果てはカフスボタンまで輝いていた。

まるで雑誌から抜け出してきたみたいだった。

「うそ、直樹! まさか、これ買ったんじゃないでしょうね!」

彼の口元が弧を描く。「レンタルしたんだ」

「レンタル!? いくらしたの?」

私は手を伸ばし、彼の袖に触れる。生地は信じられないほど滑らかだった。

「これ、高そう。すごく高そうだよ。いつもの服でよかったのに」

直樹は愛未の心配そうな表情を見つめ、胸に温かいものが込み上げてくる。このスーツは120万円もした。だが彼女は、彼がレンタルしたと思い、その費用を心配している。

「心配いらない。今夜は君にとって大事な日なんだろ。だから、格好良く見せたかったんだ」

私は唇を噛む。「直樹はいつも格好いいわ。でも、ありがとう。こんなことしてくれて」

彼の眼差しが和らぐ。「愛未のためなら、何でもする」

会場のロビーは、大理石の床にシャンデリアが輝いている。デザイナーズブランドの服に身を包んだ人々がシャンパングラスを手にし、その会話がジャズの音楽と混じり合っていた。

私は緊張してクラッチバッグを握りしめる。直樹の手が、私の腰の低い位置にそっと添えられ、支えてくれる。

五十代くらいの男性が直樹を見て、目を大きく見開いた。

「はやか――」

直樹の視線が彼を射抜く。男の言葉が途切れた。直樹はわずかに首を横に振る。メッセージは明確だ。黙れ、と。

「あなたのこと知ってるの?」私は囁いた。

「人違いだろう」

私たちはメインホールへと足を踏み入れる。さらに多くの人々、さらに多くのシャンパン、さらに多くの偽りの笑顔。

若い女性社長が直樹に気づき、口を開いた。

「直樹――」

彼の手が私の腰をぐっと引き寄せるのと同時に、その視線が彼女を制する。女性は即座に理解し、顔を背けた。

隅にはテック企業の役員の一団が立っていた。そのうちの一人が直樹を見て、グラスを落としそうになる。

「早川直樹だ。なんで彼がここに……」

彼の連れが袖を引っ張り、指をさす。その役員は直樹の冷たい視線に気づき、口をつぐんだ。

「どうして皆、私たちのことを見てるの?」

「君がこの部屋で一番美しい女性だからさ」

顔が熱くなる。

その声。鋭く、そして偽りの甘さを含んだ声。

「愛未! 本当に来たのね! しかも運転手さんを連れて?」

振り返ると、杏奈が赤いデザイナーズドレスをまとい、得意げな表情を浮かべた新興企業の副社長である彼氏と腕を組んでいた。

「まあ、なんて古風なのかしら。ネットワーキングのイベントにお手伝いさんを連れてくるなんて。新しい流行?」

彼女の彼氏がくすくす笑う。近くにいた数人がこちらに視線を向けた。

私の手は拳を握りしめる。深呼吸よ、愛未。

そして私は決断する。

振り返って直樹の瞳をまっすぐに見つめ、彼の腕に自分の腕を絡めた。

「彼は私の運転手じゃないわ。私の彼氏よ」

その場の空気がしんと静まり返る。直樹を知っている数人の役員たちが、笑いをこらえて顔を赤くしている。

「あら、愛未。嘘つかなくてもいいのよ。あなたが彼を雇ったのはみんな知ってるわ。下の社会階級の人と付き合うのが悪いとは言わないけど。ただ、ここに連れてくるのが適切かどうかは、ちょっと疑問ね」

「ええ。俺が彼女の彼氏ですが。何か問題でも?」直樹の声は氷のようだ。

彼の腕が、所有権を主張するように私の腰を抱き寄せる。その仕草は紛れもない意思表示だった。彼女は俺のものだ、と。

杏奈の彼氏が直樹をずーっと見つめ、急に顔がさっと青ざめる。彼の口が開いた。

「早川さん――」

直樹の視線が、刃のように彼を貫く。冷たく、鋭く、紛れもない権威を帯びていた。

男の言葉は喉の奥で消えた。彼は直樹のかすかな首振りを認めると、即座に口を閉ざした。

全ては三秒にも満たない出来事だった。

杏奈は混乱した様子で彼氏を見る。「何を言おうとしたの?」

「い、いや……何でもない。お、俺は……人違いを……」

だが、彼の声は震えている。冷や汗が額を伝っていた。

直樹が杏奈に向き直る。その声は穏やかだが、力を秘めていた。

「その通り、俺は愛未の運転手だ。だが、少なくとも敬意とは何かは知っている」

私の腰を抱く腕に力がこもる。

「あんたは見せびらかすために『銀杏庵』で30万円を使う。俺は毎日愛未を職場に送り、彼女の夢を聞き、そのストレスを心配する。どちらに価値があると思う?」

杏奈の顔が真っ赤に染まる。

「行くわよ」

直樹は私を見て、優しい目をする。彼は私の手を取り、出口へと向かった。

人々は自然と道を開ける。なぜだかわからないけれど、直樹には何かがある。人々が本能的に脇へ寄ってしまうような、そんな存在感が。

外に出ると、冷たい夜気が顔を撫でる。私はまだ震えていた。

「私のために、あんなことしなくてもよかったのに」

私の声はか細い。

彼は立ち止まり、私に振り向く。街灯の下で、あの黒い瞳がひときわ深く見えた。

「彼女は君を侮辱した。誰であろうと、君をあんな風に扱うのは我慢ならない」

「でも、彼女は間違ってない。私たち……つまり、社会階級が……」

「社会階級なんてクソくらえだ」

私は衝撃を受けて彼を見つめる。直樹が汚い言葉を使うなんて。

彼の手が私の顔を包み込み、無理やり彼を見させる。

「いいか、愛未。あの連中が俺をどう思おうと構わない。俺が君に相応しいかどうかなんて、どうでもいい。重要なのは君だけだ。君が俺をどう見るかだ」

親指が優しく私の頬を撫でる。

「今夜、君はあの連中の前で、俺が君の彼氏だと言ってくれた。それが俺にとってどれほどの意味を持つか、君は知らないだろう」

心臓が乱暴に鼓動する。

「どういう意味?」

「キスしたいってことだ。今。ここで。世界中に見せつけるように」

彼の声は低く、危険なほどの優しさを帯びていた。

私は爪先立ちになり、自分から彼にキスをした。

深く、必死なキス。全ての感情を注ぎ込むような。

唇が離れると、二人とも息を切らしていた。

「あなたの家へ」

声が掠れていた。

「今すぐ」

彼の瞳に理解の色が閃く。そして、もっと深い何かが。

「本気か?」

「これほど確信したことはないわ」

彼はそれ以上何も言わず、ただ私の手を取って、足早に駐車場へと向かった。

エレベーターを降りると、共用廊下を通らずに直接マンションの玄関に到着した。高級マンションの専用エレベーターで、扉を開けるとすぐに室内の玄関ホールだった。

床から天井までの窓。T市の灯りが、まるで零れ落ちた星のように広がっている。

「これがあなたの『家賃が安いアパート』?」

「少し控えめに表現していたかもしれないな」

彼はまだ玄関のそばにいる。私たちの間には距離がある。まるで張り詰めた糸のような緊張感。

クラッチバッグを落とす。床に当たる音がした。

私は彼に向かって歩き出す。一歩一歩が、決断だった。

彼にたどり着くと、ネクタイを掴んで引き寄せた。

このキスは違う。さっきのは必死だった。これは、意図的。

彼の手が私の髪に滑り込む。ピンが散らばる。一時間もかけてセットしたアップスタイルが崩れていく。

背中が壁にぶつかる。彼の体でそこに縫い付けられる。

彼のジャケット。肩から押しやるように脱がせると、床に落ちた。

彼のネクタイ。緩めて、落とす。

私たちは寝室へともつれるように向かう。キスをしながら。触れ合いながら。荒い息を吐きながら。

「直樹、私、こういうの……したことないの。つまり、一度も……」私はわずかに身を引いた。

彼はすぐに動きを止める。その手は優しく私の顔を包んだ。

「いつでもやめられる。無理にしなくても――」

私は彼のシャツを掴む。「やめるなんて言わないで」

「愛未……」彼の声は掠れていた。

「これがしたいの。あなたが欲しい」

ベッドは大きい。シーツは柔らかい。外では、都会の灯が輝いている。

彼の指が私の肩をなぞる。「綺麗だよ、愛未」

「そんなの、ただ――」

「本当のことだから言ってるんだ」

ドレスのジッパー。ゆっくりと。意図的に。肩へのキス。

私の手が彼の胸に。シャツのボタン。掌の下で、彼の肌が熱い。

「これって、現実なの?」私は囁く。

「俺を見て、愛未」彼は私の瞳を覗き込んでいる。

彼の愛撫は優しいのに、求める力が強い。私は彼の名前を喘ぐように呼ぶ。大切にされていると感じる。ちゃんと見てもらえていると感じる。

私たちは絡み合ったシーツの中に横たわっている。彼の手が、私の背中に気だるげな円を描く。

彼は私の額にキスをする。「今夜、泊まっていくだろ?」

「どこにも行かないわ」

キッチンで、私は直樹のシャツを着て水を探している。シャツは大きすぎて、太ももの真ん中あたりまでしかない。外では、T市が眠りについている。

後ろから腕が回される。温かくて、がっしりしている。

「もう一回?」彼の掠れた声が耳元で囁く。

私は笑う。「欲しがりなんだから」

「君といる時だけだ」

私たちは寝室へと戻っていく。中からは、親密な物音が漏れ聞こえていた。

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