第2章
隆司視点
周りのパーティーの喧騒が、まるで別世界から聞こえてくるようだった。画面をなぞる俺の指が震えている。「@玲子の療法」のプロフィール写真は、見慣れたあの写真、水色のニット帽をかぶり、ハチを腕に抱いて、春の日差しのように暖かく微笑む玲子の写真のままだった。
だが、彼女はもういない。死んでから、三ヶ月が経つ。
「ありえない……」
俺は呟き、再生ボタンを押した。
動画がゆっくりと再生される。画面に映し出されたのは、リハビリセンターの見慣れた音楽療法室だった。白い壁、木の床、そして隅には俺がかつて弾いた黒いピアノが置かれている。カメラの前にはハチが寝そべっていて、その金色の毛が柔らかな照明の下で輝いていた。
そこへ、玲子が現れた。
俺が一番好きだった、あの水色のニット帽をかぶっている。頬はこけていたが、瞳の輝きは失われていなかった。抗がん剤治療で髪はすべて抜け落ちてしまっていたが、その笑顔は、今でも一瞬で俺のすべての防御を打ち砕く力を持っていた。彼女が話し始める。その声は、優しく、けれどはっきりとしていた。
『みなさん、こんにちは。水原玲子です。もしあなたがこの動画を見ているなら、それは二つのことを意味します。一つは、今日が二〇二四年二月五日だということ。そしてもう一つは、私がこの世にもういなくて、隆司に直接「お誕生日おめでとう」って言えないってことです』
呼吸が速くなる。スマホが手から滑り落ちそうになった。違う、違う、こんなの悪趣味な冗談に決まってる。誰かが俺をからかってるんだ。
『でもね、隆司』玲子は続けた。まるで時空を超えて俺の目を見透かすように、まっすぐにカメラを見つめながら。『誕生日には必ずそばにいるって、約束したでしょ。死んだからって、その約束は破れないよ』
その約束を、俺は覚えていた。あれはセンターでの三回目のセラピーの後だった。誰も覚えていてくれないから誕生日は祝ったことがない、と俺が打ち明けたときのことだ。彼女は俺の手を握って、こう言ったんだ。『私が覚えてるよ、隆司。毎年、誕生日には必ずそばにいるから』って。
カメラが微かに揺れた。明らかに、玲子の手も震えているのだ。俺の名前を聞いて、ハチがカメラを見上げた。尻尾が優しく揺れている。あの裏切り者の犬め。
『隆司は自分の誕生日を祝わないんです』玲子の声に、胸が張り裂けるような痛みがこもっていた。『誕生日は、世界に忘れられた証拠だから、だって。今日で、あなたは二十九歳だね。今年からあなたが五十七歳になるまで、二十九本のお誕生日動画を撮りためておきました。私のインスタグラムが、毎年二月五日に自動で一つずつ投稿してくれるの』
全身の血が凍りつくのを感じた。二十九本? 二十九歳から五十七歳まで? どういうことだ?
『私がそばにいなくても、もう誰にも祝ってもらえない誕生日は来ないからね』玲子の瞳に涙が光っていたが、彼女は必死に笑顔を保とうとしていた。『今、私のこと嫌いでしょう。見捨てられたって思ってるよね。でも隆司、ハチもあなたを見捨ててないし、私も見捨ててない。ただ、今までとは違う形で、あなたのそばにいるだけなんだよ』
「違う!」画面に向かって叫びたかった。「お前が俺を見捨てたんだ! ハチと一緒にいなくなって、俺一人にあの借金を全部押し付けたくせに!」
だが、動画の中の玲子はただ指先にキスをして、それをカメラに向かって吹きかけるだけだった。動画は、そこで終わった。
俺はソファに崩れ落ちた。スマホが手から滑り落ち、パリン、と鋭い音を立てて大理石の床に叩きつけられた。まるで、砕け散った俺の心みたいに。
震える手で別のスマホを掴み、ツイッターを開く。「#玲子の誕生日プレゼント」が、すでにトレンドの一位に躍り出ていた。心臓が胸から飛び出しそうなくらい、激しく鼓動していた。
コメント欄は、地獄絵図だった。
@メロディ中毒 『ってことは、隆司の白桜音楽賞でのスピーチ、全部嘘だったってこと? こんなにロマンチックで、悲しい誕生日プレゼント、見たことない……』
@謎解き人 『待って、この子本当に亡くなってたの? 隆司って昨日の夜、彼女のことボロクソに言ってたよね?』
@玲子推し 『29本も!? 最後の瞬間まで、28年分もの誕生日のお祝いを彼のために準備してたなんて! このクズミュージシャン、彼女に一体何したわけ?』
クズミュージシャン? 俺が? 見捨てられたのは俺の方だ! すべてを背負わされて、置き去りにされたのは、俺の方なのに!
だが、玲子への同情と俺への怒りに満ちたコメントを読んでいるうちに、俺は恐ろしい事実に気づかされた。誰もが、俺が嘘をついていると思っているのだ。
俺は梨乃の寝室のドアに駆け寄り、激しく叩いた。「梨乃! 梨乃、見たか? あの動画、見たのかよ!」
ドアが開いた。梨乃の目は赤く腫れ上がり、顔には涙の跡がまだ残っていた。彼女は、まるで見知らぬ人を見るかのような目で俺を見ていた。
「隆司」彼女の声は震えていた。「昨日の夜、自分が何を言ったか分かってるの?」
「本当のことを言っただけだ! あいつは本当に俺を見捨てたんだ! あいつは.......」
「彼女は死んだのよ、隆司!」梨乃が突然爆発した。「三ヶ月前に死んだの! あなたは三千万人の視聴者の前で、死んだ女性を侮辱したのよ!」
俺は一歩後ずさった。「だから何だ? 死んだら裏切りが許されるってのか?」
梨乃は俺をじっと見つめた。その瞳には、今まで見たこともないような失望の色が浮かんでいた。「本当に、何も覚えてないの?」
「何をだよ?」
彼女は首を振り、ドアをバタンと閉めた。
俺はリビングに戻り、スマホを取り出してコメントをスクロールし続けた。一つ一つの言葉が、心臓をえぐるナイフのように感じられた。反論したかった。玲子がどれだけ俺を傷つけたか、皆に伝えたかった。だが、いざ文字を打ち始めると、頭に浮かぶのは動画の中の彼女の優しい笑顔ばかりだった。
彼女は言った。『ただ、今までとは違う形で、あなたのそばにいるだけなんだよ』
どういう意味だ? どんな違う形だって?
俺はもう一度動画をクリックし、何度も何度も見返した。そのたびに、前回は見逃していたディテールに気づく。玲子は痩せていた。俺の記憶の中の彼女よりも、ずっと。手が震えていたのは緊張からじゃない、衰弱からだ。あのニット帽の下には、一本の髪の毛も見えなかった。
抗がん剤治療。
その言葉が、突如として脳裏をよぎった。彼女は抗がん剤治療を受けていた。病気だったんだ。重い、重い病気に。
だが、それがどうした? それでも彼女は俺を見捨てたじゃないか。ハチと一緒にいなくなって、俺一人にあの借金を全部押し付けて。これは全て本物だ
高橋先生に電話をかけようと、スマホを手に取った。彼女はリハビリセンターの所長だ。彼女なら真実を知っているはずだ。
だが、数回の呼び出し音の後、留守番電話に切り替わった。『もしもし、高橋香織です。ただいま電話に出ることができません。もし水原玲子さんの件でしたら、明日の記者会見をご覧ください。真実はおのずと明らかになります』
記者会見? 何の記者会見だ?
電話を切り、胸のざわめきが強くなるのを感じた。外では、青ヶ浜の夜空に星が瞬いている。時刻は午前三時を示していた。俺の二十九歳の誕生日も、すでに四分の一が過ぎ去ってしまった。
二十九本の動画。二十九歳から、五十七歳まで。
つまり彼女は、自分の死期を悟った最期の瞬間に、病を嘆くでもなく、迫りくる死を恐れるでもなく、ただ一人でカメラの前に座り、俺のために二十八年分の誕生日のお祝いを記録していたということだ。
そして俺は昨夜、全国三千万人の視聴者の前で、彼女が俺を裏切ったと言い、医療費の借金を残したと言い、裏切りとは何かを教えてくれたと言い放った。
目を閉じたが、玲子の笑顔が鮮明に心に残っていた。あの水色のニット帽の少女、毎年誕生日にはそばにいると約束した少女、もう二度と戻ってはこない少女。
「違う……」俺はかっと目を見開き、激しく首を振った。「いや、こんな風に考えるわけにはいかない。理由が何であれ、彼女は俺を見捨てたんだ」
俺を疑わせるディテール――彼女の痩せた体、震える手、あの帽子の下の空虚さ、それらから、俺は無理やり目を逸らした。
「あいつは俺を苦しめるために、罪悪感を抱かせるために、あの動画を撮ったんだ」がらんとしたペントハウスに、俺自身の声が響いた。「これが、あいつの最後の復讐なんだ」
そう自分に言い聞かせながらも、俺の手はまだ震えていた。
今や誰もが、俺をクズだと思っている。
そして俺は……俺自身、もう何を信じればいいのか分からなくなっていた。
