第1章 縁組に同意する

三周年の記念日。瀬尾杏奈は上品なギフトボックスを抱え、古谷晏一にサプライズを仕掛けるつもりでいた。

ところが書斎のドアの前まで来た途端、中から古谷晏一の母の声が聞こえてきた。

「晏一、心音が今日の午後には戻ってくるのよ。あなた、まだ杏奈と結婚するつもりなの?」

瀬尾杏奈の足が反射的に止まる。ノックしかけた手が、宙に固まった。

扉はわずかに開いていた。ソファに座る古谷晏一は、指に煙草を挟み、煙が彫りの深い横顔に絡みつく。掠れた声で吐き出した。

「……わからない」

古谷真紀が深く息をつく。惜しむような、胸の痛む音。

「心音は生まれたときからうちで引き取って育てたの。私はあの子を見てきたし、本当に好きよ。あのときあなたのお祖父さまが頑固で、どうしても二人を認めなかったから……心音は腹を立てて海外へ行っちゃった……」

書斎に沈黙が落ちる。

古谷晏一が煙草を深く吸い、視線の奥が複雑に揺れた。

「でも……」古谷真紀は声色を変える。「杏奈もいい子よ。この三年、あなたにも私にも心から尽くしてくれた。気が利いて、聞き分けもいい。ほとんど欠点が見当たらない。正直に言うと、今さら母さんが選べと言われても……どうしたらいいのかわからないわ」

「杏奈が妻にいちばん向いてるのは、俺もわかってる」

古谷晏一の声には疲れが滲んでいた。

「けど……心音のことだけは、どうしても手放せない。三年の情と、三十年の情は……同じじゃない」

瀬尾杏奈は扉の前で、ギフトボックスを握る手に力が入った。関節が白くなる。

自分と古谷晏一の三年。水野心音と古谷晏一の三十年。

重さは、比べるまでもない。

古谷真紀のため息がまた響いた。

「もう上流階級じゃ、あなたが杏奈と結婚するってみんな知ってるのよ。招待状まで用意したこのタイミングで婚約破棄なんて、古谷家の顔はどこに置くの。よく考えなさい。あなたがどう思っていても、まず杏奈を落ち着かせるのが先よ」

古谷晏一が煙草を揉み消し、冷たく言った。

「わかってる。俺には俺の考えがある」

瀬尾杏奈はもう、これ以上聞いていられなかった。魂が抜けたみたいに踵を返し、寝室へ戻る。

化粧台にギフトボックスを置く。中には高級腕時計。

――滑稽で、笑えてくる。

一緒に過ごした三年が、短いフラッシュバックみたいに脳裏をよぎった。

彼がいつもどこか冷たかった理由。結婚の話になるたび、はぐらかした理由。

結局、古谷家のお祖父さまに押し切られて、渋々承諾しただけだったこと。

古谷晏一の心は、最初から自分のものじゃなかった。

瀬尾杏奈は息を整え、ある番号に電話をかけた。

「お父さん、私」

声は不思議なほど落ち着いていた。

「考え直した。家に戻って、家業を継ぐ。今まで私が子どもだったせいで、お父さんとお母さんを怒らせた……許してほしい」

瀬尾正樹はしばらく沈黙し、厳しく言った。

「本気か? 家を継ぐなら、陸川家との縁談が条件だ」

陸川グループの後継者、陸川純平。上流階級では知らぬ者のいない男。

あのとき瀬尾正樹が進めた相手がまさに彼で、杏奈は拒み、家を飛び出し、古谷晏一についていった。

当時はそれが「愛」だと思った。後悔なんてない、と。

でも今ならわかる。

彼女の愛は最初から最後まで独り相撲で――笑い話にすぎなかった。

瀬尾杏奈はギフトボックスを無造作に横のゴミ箱へ放り投げ、電話へ言った。

「わかった。来月、帰って縁談を進める」

通話を切った直後、古谷晏一が部屋に入ってきた。化粧台の前に一人で座る瀬尾杏奈を見て、一瞬だけ目を瞬かせる。

「いつ来た?」

「さっき」瀬尾杏奈は振り向いた。淡々として、感情が読めない。

古谷晏一は深く考えもせず、クローゼットへ向かう。袖口のカフスを外しながら言った。

「午後、重要な会議がある。先に出る」

瀬尾杏奈は心の中で冷たく笑った。

嘘だ。さっき書斎で聞いた。水野心音が午後に帰る、と。

「重要な会議」なんて、ただ高嶺の花に会いに行くだけ。

――それでも今日は三周年の記念日だ。

瀬尾杏奈の胸のどこかに、まだ小さな幻想が残っていた。最後に一度だけ、チャンスをあげたかった。

背中を見つめ、探るように声をかける。

「今日が何の日かわかる?」

古谷晏一の着替えの手が止まる。少し考え、首を振った。苛立ちが混じる。

「知らない。何の日だ?」

その瞬間、瀬尾杏奈の心の奥で、最後の火が消えた。

自嘲気味に笑い、小さく言う。

「なんでもない。行って」

古谷晏一は訝しげに振り返り、ついでのように言った。

「今日、なんか変だぞ」

そう言って襟元を整え、振り返らずに出ていった。

ドアが閉まった瞬間。瀬尾杏奈の涙が、ようやく落ちた。

三年分の献身は、結局――完膚なきまでの敗北。

もう古谷家にいる必要なんてない。

目的もなく街を歩き、最後はカフェに入って席に落ちた。窓の外を行き交う人々を眺めるほど、胸がぽっかりと抉られていく。空っぽで、寒い。

どれほど座っていただろう。夕暮れ近く、スマホがぶるりと震えた。

親友の堂本寧々から動画が届く。

背景は寧々の経営するバー。揺れる映像の中で、古谷晏一が女を抱き寄せていた。女が彼の耳元で何か囁き、古谷晏一は身を屈めて聞き、口元に柔らかな笑みを浮かべる。

続けてメッセージが届いた。

「杏奈、うち今日パーティーなんだけど、誰に会ったと思う?古谷晏一!隣の女、誰?距離近すぎない?」

瀬尾杏奈はその問いには答えず、打ち返した。

「パーティーなら、どうして私を呼ばないの?」

堂本寧々から返事が来る。

「呼んでも来ないでしょ。古谷晏一と一緒になってから、酒も夜遊びも全部やめたじゃん」

瀬尾杏奈の手が、わずかに震えた。

そうだ。三年間、彼のために自分を何度も変えた。

酒が嫌いだと言われたら飲まない。露出が嫌いだと言われたら着込む。

家族が気に入らないと言われ、家を飛び出し、両親を激怒させた。

目の奥が熱くなる。

あれほど捧げて、残ったものは何だろう。

――愛されていないなら。もう、彼のために生きる必要はない。

瀬尾杏奈は涙を拭い、悲しみを仕舞い込む。堂本寧々へ返信した。

「アルマンド、何本か用意して。今から行く」

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