第2章 彼女持ちが駄目なら、あなたはどうなの?

夜。瀬尾杏奈は堂本寧々のバーに姿を見せた。

赤いマーメイドラインのキャミソールドレスが、女らしい曲線をくっきりと際立たせている。覗く鎖骨は白く、すらりと伸びた首筋も目を奪うほどに美しい。

しかも今日は、わざわざ丁寧にメイクまでしてきていた。ぱっと現れた瞬間、店内の視線がいっせいに彼女へ吸い寄せられる。

堂本寧々はその姿を見るなり、ぽかんと口を開けた。

「ちょっと、杏奈! 何それ、今日めちゃくちゃ綺麗なんだけど! あんたがそんな格好してるの、いつぶり?」

瀬尾杏奈はふっと微笑む。

「そう? じゃあ、これからはずっとこうする」

二、三言交わしたあと、堂本寧々が杏奈の耳元へ顔を寄せ、声を潜めた。

「今日そんなに気合い入ってるってことはさ……まさか、浮気の現場でも押さえに来た?」

「何を押さえるの?」瀬尾杏奈はシャンパンのグラスを手に取り、くるりと揺らす。「私はただ、あんたの店に顔を出しに来ただけ」

堂本寧々は、そんな言い訳を信じるほど甘くない。杏奈の手首をつかむと、そのままぐいっと引っ張った。

「とぼけないの。ほら、行くよ。あいつらの個室、見に行こ」

瀬尾杏奈は抗いきれず、半ば引きずられるようにしてその個室の前まで連れて行かれた。

扉はきちんと閉まりきっておらず、中から弾けるような笑い声がはっきり漏れてくる。

「晏一、お前『罰ゲーム』負けただろ! 心音にキスな!」

上田健人の声だった。古谷晏一のいちばんの親友で、子どもの頃からずっと一緒に育ってきた男だ。

すると別の友人が、たしなめるように言う。

「おい、やめとけって。晏一、彼女いるだろ。さすがにまずいんじゃないか」

上田健人は鼻で笑った。

「何がまずいんだよ。晏一と心音が付き合ってた頃、瀬尾杏奈なんてどこにいたんだって話だろ。あいつに口出す資格ある?」

そのとき、甘くやわらかな女の声が割って入った。

「健人、そんな言い方しないで。杏奈さん、晏一にすごく良くしてくれてたんでしょ? 三年も私の代わりみたいに晏一のこと支えてくれたなら……ちゃんとお礼しなきゃ」

あまりにも白々しいその言い方に、瀬尾杏奈の眉がきゅっと寄る。

こらえきれず、扉の隙間から中を覗いた。

案の定、古谷晏一の隣には、肩まで波打つ巻き髪に白いフリンジドレスを纏った女が座っていた。やわらかく媚びるような雰囲気まで、動画で見た女と寸分違わない。

水野心音。

古谷晏一が「三十年の情がある」と口にした女。

上田健人はさらに大きな声で笑う。

「俺、別に嘘なんか言ってねえよな。晏一がずっとお前のこと忘れられなかったなんて、誰でも知ってる話だろ」

水野心音は、しっとりとした目で古谷晏一を見つめた。

「晏一……ほんと?」

古谷晏一は何も言わない。

水野心音は頬を染め、恥じらうように視線を落とした。

「……私も、ずっと会いたかった」

その一言で、場は一気に沸き立つ。

「はいはい、もういいからキスしろって!」

「早くしろよ!」

扉の外に立つ瀬尾杏奈の目にも、古谷晏一が水野心音の肩を抱き寄せるのがはっきり見えた。

ゆっくりと顔が近づいていく。今にも唇が重なる――そう思った、その瞬間。

古谷晏一はふいに顔を上げ、水野心音の額にそっと口づけた。

水野心音は一瞬きょとんとし、その瞳の奥をかすかな落胆がよぎる。

上田健人がすぐさま不満げな声を上げた。

「おい晏一、なんで額なんだよ! どうせなら口だろ、口!」

古谷晏一はテーブルの酒を手に取ると、一息に飲み干した。そして、氷のような声音で言い放つ。

「その辺にしとけ」

空気を察した友人たちは、それ以上は囃し立てられずに引き下がった。

瀬尾杏奈は扉の前に立ち尽くしたまま、胸を何本もの刃で突き刺されるような痛みに息が詰まる。苦しい。立っているのもやっとだった。

隣で見ていた堂本寧々は、もう限界だった。拳を握りしめ、今にも飛び込もうとする。

「ふざけんなよ、あいつら……! 今すぐあの女、引っぱたいてやる!」

「やめて」瀬尾杏奈は静かに制した。「好きにさせとけばいい。もう……どうでもいいから」

そう言って背を向けた、そのとき。

ちょうどトイレから戻ってきた高木辰巳と正面からぶつかった。

高木辰巳も古谷晏一の友人で、当然杏奈のことは知っている。彼は目を見開き、思わず声を上げた。

「瀬尾杏奈? なんでここに――」

その一声で、個室の中の視線が一斉に入口へ集まった。

古谷晏一は扉口に立つ瀬尾杏奈を見た瞬間、水野心音の肩に置いていた手を反射的に離した。

「何しに来た。しかも、その格好は何だ」

せっかく丁寧に着飾った杏奈を見ても、返ってきたのはあからさまな不機嫌だけ。

どうせ見つかったのなら、もう逃げる必要もない。瀬尾杏奈はむしろ余裕のある笑みを浮かべた。

「友達のパーティーに来ただけだけど。何か問題ある?」

すかさず堂本寧々が前へ出る。

「そう。ここのオーナーは私。杏奈は私が呼んだの。古谷社長、何か文句ある?」

古谷晏一は上田健人をきつく睨んだ。だが上田健人は肩をすくめ、そんなこと知るかと言わんばかりの顔をする。

そのとき、水野心音がにこやかに歩み寄ってきた。親しげに瀬尾杏奈の腕へ手を絡め、明るく笑う。

「あなたが杏奈さんなのね。せっかくだし、一緒に遊びましょう?」

瀬尾杏奈は彼女の前で惨めな顔だけは見せたくなくて、同じように笑い返した。

「いいわ」

そして堂本寧々に向き直る。

「シャンパン、何本か開けて。今夜は私が奢る」

堂本寧々は心配そうに杏奈を見た。しかし、その目に宿る強い意志を見て、何も言わずに酒を取りに向かう。

古谷晏一は眉間に皺を寄せた。

「お前、自分の給料がいくらか分かってるのか。何で奢る必要がある」

自分でも理由は分からない。ただ今日の瀬尾杏奈は、いつもとどこか違って見えた。

普段の彼女なら、こんな場所に自分から来るはずがない。

なのに今日は、自分から足を踏み入れている。

「古谷社長に心配していただく必要はありません」

瀬尾杏奈は、彼の方を一瞥すらしなかった。

個室の面々は互いに顔を見合わせ、場の空気に微妙なぎこちなさが漂う。それでも結局、杏奈がこの場に加わること自体は黙認された。

瀬尾杏奈はテーブルの上の空き瓶を手に取り、にこりと笑う。

「ねえ、さっきのって罰ゲーム?」

上田健人が頷いた。

「なら、私も混ぜて。負けたら何するの?」

上田健人はちらりと古谷晏一を見て、少し声を潜める。

「……この場にいる異性にキス」

「いいじゃない」

瀬尾杏奈は瓶をテーブルの真ん中に置くと、指先で軽く弾いた。

くるくると回った瓶は、数秒後、ぴたりと彼女自身を指して止まる。

「あら」瀬尾杏奈はわざとらしく目を丸くした。「私、ついてないみたい」

立ち上がり、ゆっくりと上田健人の方へ歩いていく。その笑顔は眩しいほど華やかだった。

「じゃあ健人、悪いけど付き合って」

そう言ってつま先立ちになり、唇を寄せようとした瞬間――

手首が、ぐいっと大きな手に引き戻された。

古谷晏一の顔色は、ぞっとするほど暗い。

「健人には彼女がいる。何を考えてる」

上田健人もようやく我に返り、慌てて乗っかる。

「そ、そうそう! 俺、彼女いるから! 杏奈、悪いな……今回はなしってことでいいか?」

「ゲームで『なし』なんてある?」

瀬尾杏奈は古谷晏一の手を振り払い、そのまま冷えた目で彼を見た。

「彼女持ちが駄目なら、あなたはどうなの?」

古谷晏一は息を呑んだ。

さっきのあれを、見られていたのか。

だから今日の瀬尾杏奈は、こんなにも棘だらけなのか。

嫉妬している――そう思った瞬間でもあった。

瀬尾杏奈はもう彼を見ようともしない。グラスを手に取り、上田健人へ向けて言う。

「健人が嫌なら、罰は自分で受ける。この一杯、私が飲む」

そう言って一気にあおろうとしたところで、古谷晏一の鋭い声が飛んだ。

「瀬尾杏奈! もう酒は飲まないって言っただろ!」

何度も遮られ、周囲の空気は見る間に気まずくなっていく。

誰もが顔を見合わせていた。瀬尾杏奈が現れてからというもの、古谷晏一の様子はどう見てもおかしい。

けれど当の瀬尾杏奈は、少しも怯まなかった。むしろ嘲るような目で彼を見返す。

「あなたも、午後は会議だって言ったわよね」

唇の端だけを冷たく持ち上げる。

「それで――何をしてたの?」

前のチャプター
次のチャプター