第4章 情に厚い人
電話がつながった瞬間、受話器の向こうの声はひどく冷ややかだった。けれど、妙に丁寧でもある。
「瀬尾さん。お時間の都合がいいときに、私たちの結婚の件、一度お話しできませんか」
瀬尾杏奈はスマホを握り、唇をかすかに噛む。
「明日の午後3時。城南のスカイラウンジ・カフェで、いかがですか」
「では、そのときに」
返事は拍子抜けするほど早い。
通話が切れた。
瀬尾杏奈は顔を上げ、鏡の中の自分を見つめる。瞳の奥の光が、少しずつ硬く、強くなっていく。
――これから先、瀬尾家のお嬢様が、誰かの引き立て役で終わるはずがない。
男なんて、みんな消えてしまえ。
これからは、私が私を生きる。
翌日。
待ち合わせに瀬尾杏奈は、いつものすっぴんを捨てた。シャネル風のベージュのセットアップに身を包み、メイクも端正に整える。腰まであった髪は高めの団子にまとめ、清楚でありながら、どこか華やかだ。
カフェに入ると、窓際の席にスーツ姿の男が座っていた。輪郭は鋭く、眉目は深い。陽射しが肩を撫でても、その瞳の冷たさだけは薄まらない。
ただ座っているだけで、上に立つ者の余裕が漂っていた。
瀬尾杏奈は向かいに腰を下ろし、礼儀正しく微笑む。
「陸川さん、はじめまして」
陸川純平は氷のような目元をわずかに和らげ、要点だけを切り出した。
「政略結婚の形は柔軟に。対外的には公表しますが、私生活には干渉しません。理不尽な要求もしない」
そう言いながら、骨ばった指で卓上の金箔押しの書類を瀬尾杏奈の前へすっと滑らせた。
瀬尾杏奈はページをめくる。条件は明確だった。夫婦として互いの生活に踏み込まないこと。必要な場だけ、『陸川奥様』を演じればいい――それだけ。
安堵が、胸の奥をさらりと撫でた。
まさに望んでいた形。……同じ匂いの人間だ。
ただ瀬尾杏奈は気づいていなかった。少し離れた場所のカメラが、その光景をきっちり捉えていたことを。
カシャッ。
水野心音は古谷晏一の連絡先を開き、素早く文字を打つ。心配するふりの文面で。
「晏一、カフェで杏奈を見かけたの。向かいの男性、知り合い? 昨日のことで杏奈が衝動的になってたらと思って……」
送信。水野心音の口元に、勝ち誇った笑みが浮かんだ。
今日は友人同士の集まりのはずだったのに、急に流れてしまった。帰り道にたまたまカフェの前を通っただけで、まさかこんな収穫があるなんて。
古谷晏一を愛していると言い続けていた瀬尾杏奈が、別の男と「デート」。
――もしあの頃、古谷家のお祖父さまが頑固じゃなければ。自分はとっくに古谷家の若奥様だった。海外での三年を終え、晏一がまだ自分を忘れられないと知った瞬間、チャンスは戻ってきたと確信した。
天が味方している。そう思えるほどに。
一方その頃、古谷晏一はオフィスで書類に目を落としていた。けれど、どこか落ち着かない。胸の奥がざわついて、文字が頭に入らない。
通知音に反射的にスマホを開く。水野心音から、写真が一枚。
その瞬間、周囲の空気が凍った。
瀬尾杏奈はシャネル風の装いがよく似合い、柔らかくも艶やかだった。彼の記憶の中の彼女は、すっぴんで、くすんだジャージばかり着ていたはずなのに。
しかも、向かいにいる男はスーツ姿で品格がある。目立たないようで、目を奪う存在感。
――陸川純平。陸川グループの社長。
古谷晏一の胸の奥で、疑念が蜘蛛の糸のように絡みついた。
あいつら、どういう関係だ。
なぜ一緒にコーヒーを飲んでいる。
この三年、瀬尾杏奈は彼にすべてを合わせてきた。化粧が嫌いだと言えば、すっぴんのまま。酒が嫌いだと言えば、一滴も口にしない。
「腹が減った」その一言で、真夜中の街を走り回り、鮑の煮込みつゆそばを用意したことすらある。
母の古谷真紀の世話も、文句ひとつ言わず続けた。理不尽な思いを飲み込んで。
あれほど依存して、失うのを怖がっていた瀬尾杏奈が、変わるはずがない。裏切るはずがない。
――なら、これは演技だ。自分の気を引くため。自分に引き留めさせるため。
苛立ちは怒りへ変わり、古谷晏一は瀬尾杏奈の連絡先を開いて、矢継ぎ早に文を打ち込んだ。送信――しようとした、その瞬間。
「まだ相手と友だちではありません。申請を送信し、承認されると会話できます」
胸を鈍器で殴られたようだった。
電話をかけても、呼び出し音の虚しさだけが続く。
……ブロックされている。
昨日の瀬尾杏奈の冷たい目、嘲るような言葉がよみがえり、胸の奥に初めての焦りが広がっていく。
バーで少し反抗した程度ならまだいい。だが他の男まで使って煽り、挙げ句ブロック?
今回は本気で許せない。
「車を回せ」
内線で秘書に命じる。
十五分後、古谷晏一は別荘の前にいた。二人の結婚のために用意した場所。内装は瀬尾杏奈が、彼の好みに合わせて整えた。
使用人が慌てて出迎えようとするのも無視し、リビングのソファに沈む。入口を睨み続け、沈んだ顔は動かない。低い圧に、誰も近づけない。
空が陰り、照明が灯る頃には、古谷晏一の表情はさらに険しくなる。
料理が並び、使用人が恐る恐る声をかけた。
「旦那さま、お食事を……」
古谷晏一は返事もしない。視線は入口に貼りついたまま。
使用人は空気を読み、しばらく迷ってから言った。
「旦那さま……瀬尾さんは、ここ数日お戻りになっていません」
雷が落ちたようだった。
古谷晏一の唇が一本の線になる。目に陰が宿り、怒りが沸き立つ。
「……何だと?」
「瀬尾さんは……何日も、戻っておりません」
胸の中で何かが、ゆっくり抜け落ちていく。
焦燥が、初めて全身を包む。
古谷晏一は立ち上がり、コートを掴んで外へ出た。
瀬尾杏奈がいる場所なら、ひとつだけ心当たりがある。
城北の古い団地。エレベーターもない、古びたアパート。別荘や婚居に比べれば、みすぼらしいほどの場所。
瀬尾杏奈がかつて住んでいた場所だ。
古谷晏一は車を飛ばし、十分で到着した。
路肩に停めた、そのとき。
同時に、黒いマイバッハが一棟の前に静かに停まった。
ドアが開き、瀬尾杏奈が降りる。しなやかな立ち姿、柔らかな笑み。自信に満ちた気配が漂う。
続いて陸川純平が降り、手には上品なギフトボックス。
「婚約者に初めて会う。気持ちです」
言葉は少ないが礼儀はある。そこに妙な色気はない。
瀬尾杏奈は遠慮せず、微笑んで受け取ろうとした――
「受け取るな!」
