第5章 まずあなたが水野心音とどういう関係か言って
瀬尾杏奈の動きが、ぴたりと止まった。振り向くと、古谷晏一が怒気をまとったまま、こちらへ大股で迫ってくる。
古谷晏一は傍らの陸川純平など視界に入っていないように、杏奈の細い手首を乱暴に掴んだ。骨が軋みそうなほどの力。噛みつくような声が飛ぶ。
「杏奈! いい加減にしろ。嫉妬させたいからって、こんな男を使って芝居か? 婚約者だの妻だの……自分を安売りしてまで俺に頭を下げさせたいのか!」
一言一言が、雷みたいに胸を叩く。――結局この男は、今もなお、杏奈が場を合わせて騒いでいるだけだと決めつけている。
可笑しくて、笑えてくる。
三年。掏心掏肺で尽くしてきたせいで、古谷晏一は勘違いしたのだ。瀬尾杏奈は自分がいなきゃ生きていけない、と。だから、こんな手を使ってでも自分の注意を引こうとする、と。
古谷晏一が杏奈を睨む。その目は「あとでまとめて落とし前をつける」とでも言いたげだった。
そして背を向け、陸川純平に冷たい視線を向ける。顎をわずかに上げ、低く告げた。
「陸川社長。俺と俺の女の揉め事に、首を突っ込まないでいただきたい。自重してください。他人の私事に軽々しく混ざるな」
主張しながらも、古谷晏一の中には確信がある。瀬尾杏奈が陸川純平に本気なはずがない、と。
全部わざとだ。
陸川純平を連れてきたのも。平然とした顔を作ったのも。
昨日のバーでの件の仕返しで、自分を焦らせて、振り向かせて、引き留めさせたいだけ。
陸川純平は眉をわずかに寄せたが、何も言わない。ギフトを引き上げようとした、その瞬間――
杏奈が古谷晏一の手を振りほどき、迷いなく贈り物を受け取った。
そして陸川純平へ、ほんの少しだけ申し訳なさを滲ませる。
「陸川社長、お見苦しいところを。……この人とのことは、私がきちんと片づけます。心配しないで」
陸川純平は、決意を固めた杏奈を一瞥し、怒りを募らせる古谷晏一へも視線を移す。だが余計な言葉は足さず、淡々と口にした。
「あなたの選択を尊重します」
そう言い置いて、陸川純平は静かに一歩退いた。
そこに残るのは、瀬尾杏奈と古谷晏一だけ。
古い団地の街灯は心もとない。黄ばんだ光が二人を包む。
距離は近いのに、隔たりは途方もなく遠い。空気が、固く凍りつく。
杏奈が口を開く前に、古谷晏一が命令口調で言い放った。
「杏奈、今すぐ俺と帰れ。さっきまでのことはなかったことにしてやる。……今まで通りだ」
今まで通り?
杏奈と一緒にいながら、頭の中では「高嶺の花」の水野心音を想い続ける、あの今まで通り?
水野心音と縺れたまま、杏奈の献身だけを都合よく受け取る、あの今まで通り?
どこまで欲張るつもりなのか。
杏奈は口元を薄く持ち上げた。冷たさが、眉間から目元へ深く落ちる。
「古谷晏一。今日、ちゃんと言っておく」
そして、はっきりと言い切った。
「私は嫌がらせなんてしてないし、芝居もしてない。……別れよう」
古谷晏一の表情が、ぴしりと固まる。
瀬尾杏奈が、別れを口にする?
自分の言葉を正解みたいに崇めて、愛して、愛して、挙げ句に自分を失っていた瀬尾杏奈が?
古谷晏一にとって、それは今年いちばん笑える冗談だった。
怒りを噛み殺し、杏奈の手首を掴もうとする。だが杏奈は身をひねって避けた。
古谷晏一の声が低く、重くなる。
「杏奈、自分が何言ってるかわかってるのか。俺が本気で怒る前に、言葉を選べ」
昔なら――この怒りに、杏奈は怯えた。取り乱した。
小さく、卑屈に、機嫌を損ねないよう必死になって。うっかり何かを間違えたら、古谷晏一の愛が消える気がして。
でも本当の愛は、怯えて作るものじゃない。
杏奈は唇を噛む。瞳の奥の決意が、濃くなる。
「あなたは私を愛したことなんてない。私に向けてきたのは、上っ面の優しさと、惰性と、都合がいいときだけ思い出す『便利さ』だけ」
視線を逸らさず、突き刺す。
「あなたが手放せないのは、最初から最後まで――水野心音でしょ」
杏奈は一拍置き、冷たく問う。
「私の目を見て言える? 心音とやり直したいと思ってないって」
古谷晏一は唇を開きかけ――言葉にならなかった。
それが答え。
杏奈の胸の奥に、冷たい諦めが広がる。乾いた笑いが漏れた。
「ほらね。私はあなたにとって、いてもいなくても同じ。これからは、あなたとは赤の他人。二度と関わらない」
そう言って、バッグから銀の指輪を取り出す。内側に唐草模様。古谷晏一が『一生の印』だと言ったもの。高価じゃなくても、杏奈は宝物みたいに扱ってきた。
でも今は、ただの金属。
差し出しても、古谷晏一は受け取らない。杏奈はそれ以上の会話をする気もなく、彼のスーツの胸ポケットへ指輪を押し込んだ。
指先を抜こうとした瞬間――大きな手が、ぐっと握り潰すように掴んだ。骨が砕けそうな痛みが走る。
古谷晏一の目に濃い陰が落ち、不機嫌をむき出しにする。
「瀬尾杏奈、面倒くせぇ女だな。どうせ全部、俺に構ってほしくてやってんだろ。心音と線を引けって言いたいんだろ?」
大きく息を吐き、まるで譲歩のように続ける。
「わかった。今後、心音とは距離を置く。お前のこともちゃんと大事にする。もう放っておかない。理不尽な思いもさせない。だから――そんな幼稚な拗ね方、やめろ。いい加減にしろ」
次の瞬間、古谷晏一は杏奈の返事すら待たず、乱暴に車へ引きずった。
力が強すぎる。杏奈は抗えず、ずるずると車の前まで引っ張られる。
押し込まれた拍子に背中がドアにぶつかり、びり、と激痛が走った。杏奈の小さな顔が苦痛に歪む。
「古谷晏一……痛い! もう言ったでしょ、放して!」
古谷晏一は聞かない。瞳に残るのは、頑固な執着だけ。
ドアを閉めようとした、その手が――別の手に止められた。
「彼女は、あなたと行きたくない」
陸川純平が古谷晏一の手首を押さえ、冷ややかに見下ろす。視線は刃みたいだった。
古谷晏一は陸川純平の手を振り払い、噛みつく。
「俺と俺の彼女の問題だ。外野が口出すな!」
陸川純平は杏奈を一瞥し、淡々と言う。
「外野ではない」
――婚約者だ。
だが、その先は言わなかった。杏奈がまだ古谷晏一との関係を整理しきれていない以上、余計な火種は増やさない。
古谷晏一も何かを悟ったのか、裏切られたような怒りが噴き上がる。
「瀬尾杏奈……お前ら、どういう関係だ!」
杏奈は車から降りる。スカートの皺を整えながら、古谷晏一の怒りの目を真正面から受け止め、鋭く切り返した。
「どういう関係?」
そして、すかさず、痛烈に言い放つ。
「じゃあ逆に聞く。あなたと水野心音は、どういう関係?」
