第6章 愛は愛とならず
水野心音の名が出た、その刹那。古谷晏一の表情が、わずかに強張った。
こじれたままの高嶺の花。忘れられない元恋人。
片や三十年来の幼なじみ。片や三年間、身も心も削って尽くした恋人。
どちらが重いのか――そんな答えを、彼は咄嗟に口にできなかった。
瀬尾杏奈は、宙づりにされていた心を握り潰されたようだった。
古谷晏一は苛立ちを抑えきれない。今は、話したくない。欲しいのはただひとつ、瀬尾杏奈を連れて帰ること。
信じられなかった。自分を中心に回っていた女が、捨てると言えば捨てられるなんて。
一歩踏み出せば、瀬尾杏奈は一歩引く。
陸川純平が反射的に前へ出て、彼女を自分の背へ庇った。
古谷晏一の胸が上下し、視線が陸川純平を刺し貫く。
鋭い、剥き出しの怒気。
陸川純平は一歩も退かない。静かな目でその怒りを受け止め、全身から上に立つ者の圧を滲ませる。揺るがず、重く、そして威圧的。
空気が張り詰める。
次の瞬間、殴り合いになってもおかしくない――そう思えた。
そのとき、古谷晏一のスマホがけたたましく鳴り、にらみ合いを断ち切った。
画面の名前を見た瞬間、彼の瞳から怒りが引いていく。柔らかくなるのがわかるほどに。
すぐさま通話ボタンを押し、声を作った。
「心音、どうした?」
受話口の向こう、水野心音の声は弱々しく、泣きそうに震えていた。
「晏一……わたし……心臓が、すごく苦しい……つらい……一人で家にいて、怖いの……ねえ……早く帰ってきて……お願い……今、晏一が必要なの……」
壊れそうな声。聞いているだけで胸が締めつけられる。
古谷晏一の顔色が変わり、焦りがにじむ。
「心音、怖がるな。今すぐ行く。待ってろ!」
通話を切ると、古谷晏一はそのまま車へ乗り込み、エンジンをかけた。
轟々と唸る音。
瀬尾杏奈に一言もなく、矢のように走り去っていく。振り返りもせずに。
残ったのは排気の匂いと、夜へ溶けていくテールランプだけ。
――皮肉というほかない。
瀬尾杏奈の口元に、薄い嘲りが浮かぶ。
これが自分の恋人。高嶺の花が弱音を吐いて、委屈を並べれば、彼にとって他のすべては取るに足らない。
自分も、三年分の気持ちも。
今この瞬間、粉々で、価値なんて欠片もない。
「手首……痛くないか」
耳元で、陸川純平の低い声がした。
瀬尾杏奈の意識が少しずつ戻り、視線を落とす。白い手首に、くっきりと青紫の痕。さっき古谷晏一に乱暴に引きずられたせいだ。
水野心音なら、こんな痕はつけられない。
腫れ物に触るように、あるいはガラス細工のように――片時も目を離さず、 壊れ物のように大切に扱われる存在。
愛されるか、愛されないか。
本当に、分かりやすい。
瀬尾杏奈が顔を上げる。車の影は、もう夜の向こうに消え失せていた。
心は灰になっているはずなのに――どこかが生々しく抉られたみたいに痛くて、呼吸まで慎重になる。
不甲斐なく涙が溜まり、拭っても拭っても、大粒でこぼれ落ちた。頬を伝い、ぽたぽたと落ちる。
ハンカチが、目の前に差し出される。
瀬尾杏奈は顔を上げず、それを掴んで押し当てた。溢れる涙も、みっともない顔も、全部隠すみたいに。
「泣きたいなら、泣けばいい。無理に堪える必要はない」
陸川純平は隣で静かに立ち、声音は柔らかいのに、距離の取り方は正確だった。
「まだ気持ちの整理がついていないなら――過去を完全に手放せていないなら、両家の縁談は白紙にします。あなたに無理はさせない」
瀬尾杏奈は、見知らぬ婚約者の人となりがわからず不安だった。だが今、たとえ真心がなくても、たとえ利害の一致でしかなくても。
少なくとも、この男は尊重を知っている。分を弁えている。
もう、前みたいに卑屈に縋らなくていい。
瀬尾杏奈は涙を拭い、赤く充血した目で陸川純平を見上げた。そこには迷いのない決意が宿っている。
「陸川社長。お気遣い、ありがとうございます。でも、縁談を取りやめる必要はありません」
言い切る。硬いほど、はっきりと。
「古谷晏一とは――もう完全に終わりました。戻りません。二度と、彼のことで泣きません」
陸川純平は余計な言葉を足さず、ゆっくり頷いた。
「了解です。あなたの決断は、何であれ尊重します」
淡い笑みが、男の顔に浮かぶ。
瀬尾杏奈をひと目見てから、彼は踵を返し、車へ乗り込んで去っていった。
古い団地の街灯が、瀬尾杏奈の影を長く引き伸ばす。
見送ったあとも、瀬尾杏奈はその場にしばらく立ち尽くした。深く息を吸い、背を正して、団地へ足を踏み入れる。
ここには、古谷晏一を中心に回っていた自分の卑屈さも、喜びも、全部が詰まっている。
あの頃。古谷晏一に出会って、一目で落ちた。
愛のためなら何でもできると信じ、彼を追ってこの街へ来た。家族とも決裂し、銀行カードを止められ、手元の金は尽きていった。
収入もない自分にとって、ここが最初の住処。彼を追ってきた「始まり」の場所だった。
そして、もうすぐ――ここも出ていく。
それから数日。瀬尾杏奈のスマホに、古谷晏一からの連絡は一切来なかった。
代わりに毎朝7時、毎晩10時。
陸川純平から「おはよう」「おやすみ」が届く。
過度に踏み込まないのに、律儀で、途切れない。
あまりにも簡素な文面を眺めながら、瀬尾杏奈は時々思う。
陸川グループの社長って、恋愛経験がないのだろうか――と。
ぼやきつつも、瀬尾杏奈も真似して返す。
どうせ同じ屋根の下で暮らすのだから、最低限の土台くらいは作っておきたい。
そんなある日。
給湯室の前を通りかかったとき、中からひそひそ声が漏れてきた。
「知ってる? 古谷社長の元カノ、うちに入るらしいよ」
「え、じゃあ瀬尾杏奈って古谷社長と結婚するんじゃないの?」
「聞いた話だと、古谷社長が瀬尾杏奈と結婚するのって、瀬尾杏奈が古谷家のお祖父さまの命の恩人だって盾にしてるからなんだって。卑怯だよね」
……。
一つだけ、合っていることがある。
昔、瀬尾杏奈は偶然、心筋梗塞を起こしかけた古谷家のお祖父さまを助けた。その件で気に入られ、会社に入れてもらい、古谷晏一のそばに置かれた。
結婚のことも、確かにお祖父さまが古谷晏一へ圧をかけた。
けれど、恩を楯に取ったことなど一度もない。
それにしても――古谷晏一は、もう取り繕う気すらないらしい。高嶺の花を堂々と会社に連れてくるなんて。
ただ、今の瀬尾杏奈にはもう、どうでもよかった。
そのとき、スマホが震えた。
画面を見る。陸川純平からのメッセージ。
「会社にドレスとジュエリーを届けさせた。退勤後、慈善パーティーに同行してほしい」
短く、要件だけ。まさに陸川純平の文体。
この男、本当に無駄がない。
瀬尾杏奈は口元だけで笑い、同じ温度で返した。
「了解しました」
スマホをしまい、受付へ向かう。
「すみません。私宛の荷物が届いていると思うんですが、礼服とジュエリーのセットで」
瀬尾杏奈が微笑むと、受付の女性は困ったように首を傾げた。
「瀬尾さん……こちらには、お預かりしているものがありません」
瀬尾杏奈の胸が、ひゅっと冷える。
――ない?
