第7章 要求が卑しい

陸川純平が「送った」と言った以上、受付に残っていないはずがない。

瀬尾杏奈は眉をわずかに寄せた。

「もう一度、確認してください」

受付は記録をぱらぱらと繰り直す。ふつう、会社宛てに届いた贈り物は必ず台帳に残る。

と、受付がふいに顔を上げた。何かを思い出したように、少しだけ言いよどむ。

「瀬尾さん……思い出しました。確かに、届けに来た方がいました。ちょうどそのとき、水野さんが入社手続きをされていて……その荷物を持って行かれたんです。てっきり、水野さんのものかと……」

――そのまま、渡してしまった。

言わなくても、杏奈にはわかった。

「水野さん」――水野心音に決まっている。

瀬尾杏奈は、物事を途中で投げ出す人間じゃない。退職するにしても、手元の最後の案件を終えて、きちんと引き継いでから。そう思っていた。

この数日は、なるべく目立たないようにしていたのに。水野心音は図に乗る一方だ。

クズ男を奪うのは勝手にすればいい。

でも、自分のものにまで手を伸ばすのは許さない。

瀬尾杏奈は何も言わず、まっすぐ古谷晏一のオフィスへ向かった。

案の定――水野心音がいた。

杏奈がドアを押し開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、紫のベアトップのマーメイドドレス。身体のラインをなぞるような絶妙なカッティングが、引き締まった体つきを際立たせている。

そしていちばん目を奪ったのは、首元のルビーのネックレスだった。海外産の原石を立体的にカットしたものらしく、ひと目で高級品だとわかる。

「晏一、どう? 似合う?」

水野心音が紫の裾を揺らし、古谷晏一の前でくるりと一回転する。

晏一の目は甘く細まり、慈しむように笑った。

「すごく似合ってる」

こんなふうに綺麗な心音を、どれほど久しぶりに見ただろう。

三年前。無理やり引き裂かれた時間。

思い返すほど、胸は悔いで満ちる。――もし、やり直せるなら。

そんな後悔の余韻を切り裂くように、影がすっと割り込んだ。

氷のような声が落ちる。

「脱いで」

たった一言。けれど、刃みたいに断ち切る響き。

水野心音は怯えた小動物のように胸元を押さえ、助けを求める目で古谷晏一を見上げた。

「晏一兄ちゃん……どうしたの? 杏奈、なんでこんなに怖いの……?」

突然現れた瀬尾杏奈に、古谷晏一の顔には露骨な苛立ちが浮かぶ。

どれだけ言い聞かせても戻ってこなかったくせに、今さらオフィスに乗り込んで存在感を主張する気か。

「杏奈、お前、何がしたいんだよ」

眉間に皺を寄せ、語気を強める。

「心音が怖がってるだろ。離れろ、早く」

杏奈は取り合わない。視線を礼服に釘づけにしたまま、もう一度、冷たく言い切った。

「その服、脱いで」

水野心音はさらに動揺し、反射的に一歩退く。目がうっすら赤くなり、今にも泣き出しそうだった。

「晏一兄ちゃん……」

怯えの混じる声。

杏奈がまだ何もしていないのに、まるで彼女が一方的に心音を虐め抜いているみたいに見えてしまう。

古谷晏一の怒りが弾けた。

「いい加減にしろ!」

勢いよく杏奈を押しのける。

不意を突かれ、杏奈の足がつるりと滑った。転びかけ、咄嗟にソファへ手をついて体勢を立て直す。

顔を上げると、そこには失望だけがあった。

――これが、自分が三年、心の底から尽くした男。

自分が何もしていなくても、この男は「高嶺の花」を守るためなら平気で自分を傷つける。

もう離れると決めた以上、クズ男のために感傷に浸るつもりはない。

瀬尾杏奈は背筋を伸ばし、床を叩くような声で告げた。

「その服も、宝石も、私のもの。返して」

古谷晏一がわずかに目を見開く。

心音がドレスと宝飾品を抱えて入ってきたとき、てっきり慈善パーティー用に自分で用意したのだと思っていたのに――まさか。

水野心音は長い睫毛を震わせ、涙をたたえた目で訴える。

「わ、私……晏一兄ちゃんが入社祝いにくれたものだと思って……杏奈、怒らないで。あなたのだなんて知らなかったの……」

言葉を切り、怯えたように杏奈を窺う。

大きな過ちに気づいたみたいな顔。可憐で、哀れで、守ってやりたくなる。

――白々しい。

杏奈は心の中で冷えた笑いをこぼす。弱さを演じて、可哀想を武器にする。昔からの得意技だ。

そして、そういうのを嬉々として受け入れる愚かな男がいる。

古谷晏一が、その典型。

水野心音の台詞が終わるや否や、古谷晏一は杏奈を睨みつけ、吐き捨てるように言った。

「瀬尾杏奈、たかがドレス一着だろ。いつからそんなケチになった? そこまで突っかかることかよ」

瀬尾杏奈は口元を吊り上げ、嘲るように笑う。

「私が譲るのはゴミだけ。ドレスと宝石みたいな高いもの、彼女には似合わない」

言外の意味は、誰の耳にも明らかだった。

古谷晏一のこめかみに青筋が浮く。指先で杏奈を指し、怒りに肩を震わせる。

「瀬尾杏奈……そんなやり方で俺の気を引こうとしても無駄だ! 今すぐ心音に謝れ。謝らないなら、二度と許さない!」

杏奈は呆れを通り越して、胸の奥が冷え切った。

この男、本気で病気なんじゃないの。

口を開くより先に、水野心音が柔らかな声で割り込んだ。

「晏一、杏奈……私のせいで喧嘩しないで。私が悪いの。晏一兄ちゃんのプレゼントだと思って、間違って持って行っちゃっただけだから……今、脱いで返すね」

そう言って、心音は慌てた様子でネックレスに手をかける。急いだ指が引っかかり――

「……っ」

次の瞬間。

じゃらっ……

連なっていた赤い宝石が床へ落ち、硬い音を立てて跳ねた。いくつも、目に見える傷が走る。

「ご、ごめんなさい……わざとじゃないの……」

心音はさらに焦り、今度はドレスを脱ごうとして、背中側のレースを乱暴に引いてしまう。

びりっ……

裂ける音。

背中のレースに、十センチほどの裂け目ができた。

「やだ……!」

心音は振り返って確認し、涙をぽろぽろ落としながら縋りつくように言った。

「晏一兄ちゃん、どうしよう……私、ネックレスもドレスも壊しちゃった……杏奈、もっと怒っちゃうよね……」

そして恐る恐る杏奈を見て、また俯く。

まるで叱られるのを待つ子どものように。

古谷晏一は心音の手を包み込み、痛ましげに眉を下げた。

「そんなのどうでもいい。手は? 怪我してないか」

水野心音は黙ったまま。

その瞳の奥で、一瞬だけ、得意げな光がすべった。

――受付で、この高級ドレスと宝飾品を見つけたとき。心音は、晏一が瀬尾杏奈に贈ったものだと思った。

身代わりのくせに、晏一兄ちゃんの好意を独り占めしようだなんて。許せない。

だから持って行った。ついでに自分のものにしてしまえばいい、と。

たとえ晏一の贈り物じゃなかったとしても――返す気なんて、最初からない。

瀬尾杏奈には、こんなものを持つ資格がないのだから。

壊されたドレス。傷だらけの宝石。

瀬尾杏奈の瞳の冷たさが、さらに深く沈む。凍りつくほどの温度へ。

――人が私に害をなすなら、私もやり返す。

それが瀬尾杏奈の流儀だ。

杏奈は低く問い詰めた。視線は心音を逃がさない。

「水野心音。私のドレスと宝石を壊しておいて、謝りもしないの?」

水野心音は一歩近づき、杏奈の手を握った。やけに低姿勢な声。

「杏奈……私が悪かった。叩いても罵ってもいいから、気が済むなら……」

言葉とは裏腹に、目だけが挑発している。

瀬尾杏奈は唇の端を上げ、侮蔑を隠しもしない。

「そんなに下品なお願い、初めて聞いたわ」

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