第2章
星野紗季視点
健太さんは書類を置き、値踏みするような目で私を見据えた。彼はすぐには答えず、ゆっくりと立ち上がるとオフィスのバーへ歩き、お茶を二つのグラスに注いだ。
「座りなさい。話をしよう」彼はそう言って、グラスの一つを私のほうへ滑らせた。「また女の問題かね?」
私はそのお茶にも、椅子にも、手をつけなかった。この三年間、哲朗が浮気をするたびに、私はいつもこの場所に立ち、健太さんの「助言」を聞いてから後始末に向かった。だが、今夜は違った。
「いいえ。男の問題です。哲朗さんの問題」
健太さんは眉を上げた――明らかに予想外の答えだったのだろう。彼はお茶を一口飲み、その落ち着き払った表情は、三年前、初めてこのオフィスに足を踏み入れたときに私がどれほど萎縮していたかを思い出させた。あの頃の私は、金持ちと結婚することはおとぎ話の結末だと信じているような、世間知らずの娘に過ぎなかった。
「三年前、君は彼を一人前にする手助けをすると約束したはずだ」健太さんの声には、何十年もトップに君臨してきた人間特有の威厳がこもっていた。
すべてが洪水のように蘇る。三年前のあの夜、同じ薄暗い照明の下、この同じオフィスで。哲朗の初めての浮気を知った私は、このソファで泣きじゃくっていた。健太さんはティッシュを差し出し、真剣な声で言ったのだ。「賢く立ち回るんだ、紗季。こういう些細な問題をうまく処理して、この家をより強くするんだ」
ああ、なんて馬鹿だったのだろう。彼が本気で心配してくれているのだと信じていた。私は涙を拭い、頷いた。「はい、お父さん。哲朗さんがもっと立派な人間になれるよう、私が支えます」
「努力はしました。でも、失敗でした」私は自分でも驚くほど穏やかに健太さんの視線を受け止めながら言った。「これからは、自分のために生きる時間です」
健太さんはデスクの後ろに座り直し、目を細めた。指がデスクの表面をトントンと叩き始める――彼が考え事をするときの癖だ。この数年間で、数えきれないほど見てきた光景だった。
「紗季、我々は二人とも賢い人間だ」彼の口調は、純粋なビジネスのものに変わっていた。「ここから去ることが何を意味するか、分かっているだろう。星野の名がなければ、君は何者でもない」
それは事実だったから、胸に刺さった。ええ、彼の言いたいことは分かっている。私は何もないところから来て、哲朗と結婚することでこの世界に入ったのだ。しかし、今、これほど確信に満ちたことはなかった。
結婚式の日を思い出す。哲朗は私の手を取り、本物の感情がこもっているかのように言った。「すべてを君にあげるよ、紗季。この世界のすべてを」あの頃の私は、彼が言っているのは愛のことだと思っていた。今なら分かる。彼が私に差し出したのは、美しい牢獄に過ぎなかったのだ。
「私が初めてここに来た日のことを覚えていますか?」私は乾いた笑いを漏らした。「お父さんは、星野家の女は『些細な問題』に優雅に対処することを学ばなければならない、と仰いました」
健太さんの表情は変わらなかったが、私の続きを待っているのは分かった。
「ええ、学びましたとも。午前三時に記者から電話がかかってきても冷静でいることを学びました。彼の愛人と顔を合わせても完璧な笑顔を作ることを学びました。公の場では幸せな妻を演じることも」私の声が震え始めた――恐怖からではない。怒りからだ。「彼が他の女と一緒にいるところを目撃しても、彼を庇うことさえ覚えました」
辛い記憶が次々と蘇る。初めて彼の浮気を知ったとき、私は泣き崩れたが、彼は「なんてことないさ、紗季。愛しているのは君だけだ」と軽くあしらった。二度目、三度目、三十七度目……涙は怒りへ、そして無感覚へと変わり、いつしか私は完璧な後始末屋になっていた。
「私は、お父さんが望む通りの人間に成り果てました」私は健太さんをまっすぐに見据えた。「でも、自分に問いかけるのを忘れていたんです――私は、何を望んでいるのか、と」
健太さんはグラスを置き、窓辺へ歩いて行った。眼下には街の灯りがきらめいている。まるで彼が支配する財閥そのもののように。
「もっといい条件を提示しよう」彼は振り返らないまま、静かなオフィスに響く声で言った。「副社長の椅子と、会社の株の10パーセント。名ばかりの妻ではない、本物の権力だ」
一瞬、ためらった。魅力的な提案だった――副社長は本物の影響力を意味し、株の10パーセントは大金になる。だが、私はすぐに健太さんの意図を理解した。彼はまだ、これをただの取引の一つだとしか見ていないのだ。
「お分かりになりませんか?」私は首を振った。「これはお金の問題じゃありません。私の人生なんです」
健太さんが振り返る。その鋭い老練な目が私を射抜いた。「我々なしで、君が何者になれると思っている? 三年間のおままごと以外、何も持たない三十歳の離婚女性だ。君には何もない」
彼の言うことは間違っていなかったから、痛かった。星野家を出るということは、すべてを捨ててゼロからやり直すことだ。豪邸も、高級車も、使えきれないお金もない――振り出しに戻るのだ。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。
「自由になれます」私の声は強さを増した。「自分の選択で生きる人間になれます」
オフィスが静まり返った。健太さんは再び椅子に腰掛け、指がまたデスクを叩き始めた。彼が計算し、選択肢を天秤にかけているのが分かった。それが星野健太という男――常にビジネスマンであり、常に最善の取引を求める男。
やがて、彼は口を開いた。「紗季、本気で言っているのか? 一度そのドアから出たら、もう後戻りはできないぞ」
それは脅しであり、最後の警告でもあった。この世界で健太さんが私の人生を地獄に変えることなどたやすい。だが、もはやどうでもよかった。三年間で受けた屈辱は、すべてを失うことよりも高くつくものがあると教えてくれた。
私はドアに向かって歩いた。足取りは驚くほどしっかりしていた。ドアノブに手をかけたとき、一度だけ足を止め、すべてを変えたこの場所を振り返った。
薄明りの中、健太さんは玉座のような椅子に座り、その表情は読み取れなかった。デスクの上のお茶は、三年前と変わらない香りを放っている。だが今夜の私は、もう「賢く立ち回れ」の一言で何でも言いなりになる純真な娘ではなかった。
「戻りたいなんて、絶対に言いません」私は冷たい笑みを浮かべて言った。
ドアを押し開け、エレベーターへと向かう。廊下は静まり返り、床を打つ自分のヒールの音だけが響いていた。一歩ごとに、古い人生が遠ざかっていく。
エレベーターのドアが閉まる瞬間、従順な星野紗季は死んだのだと悟った。明日には、社交界の誰もが知ることになるだろう――星野家の完璧な妻は、もはや完璧ではない、と。
そして、ようやく、私は私自身に戻れるのだ。
