第3章

「殴ったの?」

秋乃が私に白湯を差し出す。

「ええ。囲いたい、って言われたから」

私はソファーに体を丸めたまま、胃の痙攣に耐えてその言葉だけを吐き出した。二口ほど湯を飲むと、たまらずトイレに駆け込み、胃液しか出ない激しい嘔吐を繰り返す。

秋乃がドアのところに立ち、深く息を吐いた。

「胃がボロボロなのに、どうして飲むのよ」

口元の水滴を拭い、鏡に映る蒼白な自分を見つめる。

「もう何年も経つのよ……遥、そこまでする価値があることなの?」

価値、か。

私は何も答えず、ただ脳裏に浮かぶ藤崎礼の婚約者——あの名家の令嬢の、屈託のない明媚な笑顔を思い浮かべていた。それは、今の私には絶対に手に入らない表情だ。

不意にスマホが震える。画面には『西原(藤崎礼秘書)』の文字。

「小坂様、求職中と伺いました。もしよろしければ、子会社の総務部を斡旋いたしますが」

その声は完璧な敬語でありながら、明らかな施しの色が滲んでいた。

私はスマホを握りしめる。

「結構です。藤崎社長には、もう関わりませんから」

「ご理解ください。社長は来月、神崎様と婚約されます。この大事な時期に、余計なトラブルは誰も望んでおりませんので」

「承知しています」

通話を切ると、秋乃が怒りに任せてゴミ箱を蹴り飛ばした。

「あのエリート崩れたち、何も本当のことなんて知らないくせに!」

「いいの」

私はコートの襟をかき合わせる。

「生きていければ、それで」

彼らの世界を避けるため、私は西港にある目立たない貿易会社で派遣の仕事を見つけた。

人事担当者は私の精神科通院歴と五年の空白期間に難色を示したが、人手不足と足元を見た低賃金が決め手となり、採用が決まった。

このようにして、なんとか食いつないでいける——そう思っていたのは、たった三日後、人事異動の通達が張り出されるまでのことだった。

関西エリアの業務立て直しのため、藤崎礼がこの子会社の執行役員を兼任することになったのだ。

あろうことか、私のデスクは彼の執務室のドアの真正面に移動させられていた。

「席替えは拒否します」

執務室に入り、私は彼のデスクの前で言い放つ。

藤崎礼は顔も上げず、書類にペンを走らせたまま答えた。

「構わない。なら、人事部に辞表を出してこい」

私は乾いた笑いを漏らす。

「こんな些細なことでクビですか? それが藤崎ホールディングスのやり方?」

ペンの音が止まる。ようやく顔を上げた彼の瞳は、まるでゴミでも見るかのように冷徹だった。

「俺は上司として選択肢を与えただけだ。まさか、俺がまだお前に何か求めてるとでも思ったか?」

未払いの家賃と、バイトを三つ掛け持ちしている秋乃の背中が脳裏をよぎる。私は奥歯を噛み締め、無理やり笑みを作った。

「藤崎理事が公私混同されないのであれば、私も恐れる理由はありません」

「結構」

彼は顎で出口をしゃくる。

「出る時はドアを閉めろ。それと——椅子を後ろに向けろ。顔を見たくない」

一週間後の、部署の忘年会。

日本の古臭い職場で、上司の酒を断ることは自決に等しい。

「小坂さん、派遣だからって飲まないのは、場の空気が読めないよなあ」

下卑た囃し立て声の中、無理やり流し込まれた最後の一杯で、私の意識は完全に途切れた。

次に目が覚めたのは、ホテルの高級スイートルームだった。

恐怖に弾かれたように上半身を起こすと、自分がバスローブ姿であることに気づく。リビングでは、同じくバスローブを纏った藤崎礼が、足を組んで新聞を読んでいた。

「起きたか」

彼は私の存在など気にも留めない様子で言う。

「朝食はそこだ」

全身の血の気が引いていく。

「昨夜……私たち……」

彼は新聞を置き、指先でバスローブの襟元を広げてみせた。鎖骨の上には、艶めかしいキスマークが赤く残っている。

「残念だが、お前から絡みついてきたんだ」

頭の中が真っ白になる。

「ありえない……薬を飲んでるのに、そんなこと……」

藤崎礼は私の弁解に取り合わず、テーブルの上の一枚の書類を滑らせて寄越した——『個人秘書雇用契約書』。

条件はシンプルかつ暴力的だ。月額五十万円で、彼の地下愛人になること。

「こんなの、私の意志じゃない!」

「そうか?」

彼はボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。

ノイズ混じりのあとに流れてきたのは、泥酔し、泣きじゃくる私の声。

『……礼、どうして私を捨てたの……会いたいよ……』

血液が瞬時に凍りついた。死ぬ気で押し殺してきた秘密が、今、彼の手の中で最悪の切り札となっている。

藤崎礼は私の惨めな顔を見据え、陰惨な光を瞳に宿して言った。

「婚約間近の上司を誘惑し、酒の勢いでセクハラに及ぶ。……チッ、小坂遥。この音声がネットや週刊誌に流れたら、世間はどう評価するだろうな?」

「タイトルも考えてある——『精神病歴のある派遣女が発狂、財閥御曹司につきまとう』。お似合いだろ?」

爪が掌に食い込む。私は震える声で問うた。

「これは……復讐ですか?」

「ああ」

彼は悪びれもせず言い放つ。

「お前が俺を捨てた時、俺の気持ちなど考えもしなかっただろう。今さら、なぜ俺がお前を気遣ってやらなきゃならない?」

彼は指を二本立てた。

「一つ。サインして、大人しく言うことを聞く愛人になること」

「二つ。音声を公開し、日本社会で二度と生きていけなくする」

部屋の中が、死のような静寂に包まれる。

私は顔を上げ、かつて誰よりも愛したその人を見つめ、最後の力を振り絞った。

「なら、公開してください」

藤崎礼の表情が驚愕に凍りつく中、私は一言一言、噛み締めるように告げる。

「藤崎礼、私は絶対に不倫相手にはなりません」

彼は私を睨みつけると、突然冷ややかに鼻を鳴らし、契約書をテーブルに叩きつけた。

「小坂遥、何様のつもりだ?」

「この資本主義の世界で、お前に選択権があるとでも思っているのか?」

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