第4章
バスルームの隅には、私の服が乱雑に脱ぎ捨てられている。
それとは対照的に、入り口のハンガーには藤崎礼のスーツが几帳面に掛けられ、両者の立場の違いを残酷なほど鮮明に物語っていた。
その光景が、棘となって目に突き刺さる。
私は一つ溜息をつくと、自分の安っぽいシャツに袖を通し、逃げるようにしてホテルを後にした。
秋乃から電話がかかってきた。受話器越しの声は、ひどく強張っている。
「遥、あの借金取りのクズたちが……五百万よこせって言ってきたの」
東都の空は鉛色に澱み、太陽の姿はどこにもない。
私の治療費を工面してくれていた秋乃に貯金などあるはずもなく、私自身の手持ちも雀の涙ほどだ。
「払わなきゃ、あんたのカルテを匿名掲示板に晒すって。それに……お母さんの遺骨のありかも、一生教えないって脅されて」
「店長に給料の前借りを頼んでみる。昔の友達にも当たってみるから、来月にはなんとか……」
「……わかった」
通話を切り、私は寒風吹きすさぶ街角で長いこと立ち尽くしていた。
やがて、震える指先で『三浦先生』と登録された番号をタップする。
長い呼び出し音の末、電話は繋がった。
「小坂さん?」
凍てつく空気に白い吐息を漏らしながら、私は消え入りそうな声で口を開く。
「三浦先生、度々お忙しいところ申し訳ありません。私……」
受話器の向こうは騒がしく、救急搬送の最中である気配がした。
三浦誠は静かな場所へと移動したのだろう、ふっと周囲の音が遠のき、優しい声色が響く。
「何か、困ったことでもありましたか?」
私は鉄錆の味が滲むほど強く唇を噛み締め、ようやく言葉を絞り出した。
「四百万……貸していただけないでしょうか」
人生で初めて人に金を無心する。その羞恥心がマグマのように足元から頭のてっぺんまで駆け巡り、身を焼かれるようだった。
突如、電話の向こうで看護師の悲鳴に近い声が上がった。
「三浦先生! 三番ベッド、心室細動です!」
「わかった、すぐ行く」
切断される、拒絶される、あるいは着信拒否される——そんな覚悟を決めた瞬間だった。
通話が切れるコンマ一秒前、三浦誠の早口だが確信に満ちた声が届く。
「口座を教えてください。今夜中に振り込みます」
理由は、何一つ聞かれなかった。
ツーツーという無機質な音が残る。
東都の街頭は相変わらず骨身に沁みる寒さだ。
だが、その冷たい切断音の中に、微かではあるが、生き延びるための温もりが残されている気がした。
夕刻。子会社の部長が私のデスクのパーティションを無遠慮に叩いた。
「今夜、本社との接待がある。お前も同席しろ」
数時間前、私は給料の前借りを頼み込み、惨めな思いで借用書にサインしたばかりだった。
三浦先生からの送金と、私のなけなしの貯金を合わせ、命を買い戻すための五百万はどうにか工面できた。
銀座にある高級料亭の個室。その襖を開けた瞬間、藤崎礼の姿が目に飛び込んできた。
彼は上座に鎮座し、政財界の名士たちと余裕の笑みで杯を交わしている。その所作の端々には、支配者特有の気品が漂っていた。
シャンデリアの冷ややかな光が、彼の無表情な横顔を浮き彫りにしている。
部長が私の背中をどんと突く。まるで、売れ残りの在庫品を押し付けるかのように。
その場にいる全員の視線が一斉に私に絡みつく。そこには値踏みするような、卑猥な好奇心が含まれていた。
「藤崎社長、うちの子会社から連れてきた者です」
藤崎礼は気のない様子で私を一瞥すると、口元に嘲りの笑みを浮かべた。
「ほう、見ない顔だな」
「さすがは藤崎社長、顔が広い。こんなレベルの美女が直々にお酌とは」
一通りの挨拶が済むと、一同は席に着く。
部長はわざわざ私を藤崎礼の隣に座らせ、ドスの利いた声で耳打ちした。
「いいか、気の利いたことをしろ。地蔵みたいに座ってるんじゃないぞ。社長の代わりに酒を飲むのがお前の役目だ。光栄に思え」
誰かが盃を掲げて野次を飛ばす。
「藤崎社長、その新しい部下はお酒のほうはどうなんです? まさかただの飾りってわけじゃないでしょうね?」
藤崎礼が口を開くよりも早く、部長が揉み手をする勢いで答えた。
「飲めますとも! ザルですよ、ザル!」
言い終わるや否や、なみなみと注がれた日本酒が目の前に突き出される。
「小坂、何をしている。皆様に乾杯させていただかんか」
藤崎礼は長い指先でトントンとテーブルを叩きながら、一言も発しない。まるで、滑稽な茶番劇でも鑑賞しているかのような態度だ。
私は杯を手に取ると、息を止めて一気に喉へ流し込んだ。
辛辣な液体はカミソリを飲み込んだかのように食道を切り裂き、弱りきった胃の中で暴れ回る。
「おおッ!」と歓声が上がり、男たちがさらに囃し立てようとしたその時、藤崎礼が不意に口を開いた。
「先ほどの開発案件の話だが。続きを聞かせてもらおうか」
淡々とした口調だった。
宴席の最中、多くの人間が彼に酌をしようとしたが、彼は「胃の調子が悪い」と言って一滴も口にしなかった。
代わりに行き場を失った酒はすべて、部長の手によって私の前に積み上げられ、一杯また一杯と、無理やり胃袋へ流し込まれていった。
ついに限界が訪れた。私は千鳥足で個室を飛び出し、手洗いに駆け込んだ。
自動水栓から冷たい水が流れ落ちる。洗面台にしがみついて激しく嗚咽するが、空っぽの胃からは酸っぱい胃液しか出てこない。
セットした髪は乱れ、顔に張り付き、毛先が水に浸かって惨めな姿を晒している。
秋乃に『お金はなんとかなった』とメッセージを送ると、全身の力が抜けたように、洗面台にもたれかかって荒い息を吐いた。
その時、廊下からコツ、コツと落ち着いた革靴の足音が近づいてくる。
そして、ドアが開かれた。
化粧直しに来た女性客かと思った。
だが、頭上から降ってきたのは、身の毛もよだつほど冷淡な藤崎礼の声だった。
「たかがこれしきで、音を上げるのか?」
私は奥歯を噛み締め、残った気力を振り絞って体を起こすと、彼を避けてこの息苦しい空間から逃げ出そうとした。
だが、すれ違いざまに手首を荒々しく掴まれる。抗いがたい力で、私は強引に引き戻された。
大きな掌が、私の首筋を背後から鷲掴みにする。
皮膚から伝わる体温は火傷しそうなほど熱いのに、心は芯まで凍りつくようだった。
「離して……」
胃酸で焼けただれた喉から、ひび割れた声が漏れる。
藤崎礼は容赦なく私を引きずり、巨大な鏡の前へと立たせた。無理やり顎を上げさせ、鏡に映る自分を直視させる。
「今の自分のザマをよく見てみろ。小坂遥。そんな格好で外をうろついて、通りすがりの男に拾ってくださいとでも言うつもりか?」
鏡の中の女は、眼を赤く腫らし、頬は病的なほど紅潮し、ブラウスの襟元はだらしなくはだけ、視線は定まらない。
藤崎礼は私の背後に立ち、鏡越しにその姿を眺めている。独占欲と軽蔑が入り混じったその視線は、まるで私の体を寸刻みにするかのように鋭く這い回った。
私は絶望に目を閉じ、震えを抑えきれないまま呟く。
「この世界に……あなた以上に危険で、悪意を持った人間なんているの?」
藤崎礼は鼻で短く笑うと、熱い唇を私の耳廓に押し当てた。
「今夜は俺のところへ来い。二度も言わせるな」
「消え——」
拒絶の言葉は、彼によって乱暴に喉の奥へと押し戻された。
肺に残ったわずかな酸素までもが、強引に略奪されていく。これはキスではない。罰であり、羞恥を与える儀式だ。
アルコールが血管の中を暴走し、沸騰したマグマのように理性の堤防を打ち砕く。
視界の照明がねじ曲がり、引き伸ばされ、水流の音が遠く歪んでいく。
ドクン、ドクンと。
その死に瀕したような窒息感は、あの夜、海岸の砂浜に押さえつけられた記憶を呼び覚ます。
PTSDの発作だ。
瞬く間に冷や汗が背中を濡らす。彼の胸板を押し返そうとする腕には力が入らず、意識が急速に剥がれ落ちていく。
私はまた、西港でのあの絶望的な闇夜へと引きずり戻されていく。
華やかで、けれど奇怪なこの東都において、私は依然として異物であり、いつでも切り捨てられる生贄に過ぎないのだ。
「藤崎礼……もう、許して……」
身体が音もなく墜落し、深淵の底へと叩きつけられる感覚。
痛みはあるはずだ。
けれど、私の心はもう麻痺してしまっていた。
「遥!」
藤崎礼の声が、唐突に裏返った。
そこにはもう、高みから断罪するような傲慢さはない。
彼は、怯えていた。
視界が完全に闇に閉ざされる直前。
私を抱きとめた腕の主が、かつて私を守ると誓ったあの少年なのか、それとも私を地獄へ突き落とした今の悪魔なのか、私にはもう区別がつかなかった。
私は最後の力を振り絞り、喉の奥から言葉を絞り出す。
「藤崎礼、私……もう一生、あなたの顔なんて見たくない」
