第1章戸惑う夜

キリアン・ソーンの息は熱く重く、かすかに杉の香りを帯びて、レナ・ヴォスをすっぽりと包み込んでいた。

「行くな……」

キリアンの声はかすれていて、ほとんど懇願するようだった。

燃えるように熱い掌が彼女の手首を締め上げる。痛みが走りそうなほど強い力だ。

レナは慌てて身をよじり、振りほどこうとした。だが、彼は彼女をぐいと引き寄せ、その腕の中へ引きずり込んだ。

体温が異様に高い。シャツの襟元は乱れ、目の奥には彼女が見たこともない闇が渦巻いている。

「ソーンさん、お願いです、しっかりしてください!」

震える声で、理性へ引き戻そうとする。けれどキリアンは聞こうともしない。長い指が頬を撫で、指先がやわらかな唇をかすめた。欲望に濁った視線が、彼女を呑み込みそうになる。

「……いい匂いだ……」掠れた、不揃いな息の合間に、彼はそう呟いた。

次の瞬間、彼は俯き、彼女に口づけた。

レナの抵抗は、そこで完全に途切れた。

灼ける唇と舌が、容赦なく侵入してくる。息のすべてを奪われる。

背中が冷たいオフィスのデスクに押しつけられ、熱と冷たさが混ざり合って意識が霞んでいく。

服がずるりと滑り落ち、肌が触れ合った瞬間、彼女は堪えきれず声を漏らした。

「痛い……」

キリアンが一瞬止まり、欲に染まった目で、涙に濡れた彼女の視線を受け止める。

だが、薬の灼熱が結局は勝った。彼は彼女の腰を掴み、混沌の夜へと身を投げ出した。

レナはすすり泣き、涙で滲む目でキリアンを見上げた。

この人は、上司だ。

もし明日、キリアンが目を覚ましたら――自分は生きていられるのだろうか。

レナの意識が逸れるのが気に入らないかのように、キリアンはさらに激しく突き上げ、動きは荒々しさを増していった。

ブラインドの隙間から朝の光が差し込み始めたころ、レナははっと目を開けた。

全身が車に轢かれたみたいに痛む。キリアンの逞しい腕が、まだ重たく彼女の腰に回されていた。

彼は深く眠っている。鋭い顔立ちは眠りの中で柔らぎ、だが昨夜の狂気は烙印のように彼女の身体に刻まれていた。

レナは唇を強く噛み、痛みに耐えながらそっと彼の腕を外した。

ただの平凡な秘書だ。深夜に最高経営責任者へ書類を届けに来ただけなのに、まさかこんなふうに自分を失うなんて――。

恋人すらいたことがない。

男の手を握ったことすらない。

頭を振り、ぐちゃぐちゃになった思考を追い払おうとする。けれど身体の痛みが、目の奥に涙を滲ませた。

服は見る影もなく裂けていた。彼女はタオルを身体に巻きつけ、裸足のまま持ち物を探し回る。

携帯、社員証、ヘアピン……。

拾い上げるたびに心臓が跳ねた。

何かひとつでも置き忘れたら終わりだ。

キリアンは情けをかけるタイプじゃない。もし知られたら……職を失うだけでは済まない。業界で干されるかもしれない。

自分のことはどうでもいい。けれど、面倒を見なければならない病弱な母がいる。

医療費、診察代、入院費。

どれもが重い負担だ。

レナは頬の涙を乱暴に拭い、無事だったトレンチコートを羽織った。

オフィスの外で清掃カートの音がした。

レナの呼吸が早くなる。

誰かが来る前に出なければ。

音を立てぬよう扉を閉め、逃亡者のようにエレベーターへ滑り込んだ。

レナは息を殺し、降りていく階数表示を見つめる。

早朝のロビーは、ありがたいほど人影がなかった。

彼女は通りへ飛び出し、タクシーを止め、後部座席へ転がり込むように乗り込んだ。

「カーアパートまで、急いで!」震える声で言った。

運転手がバックミラー越しに彼女をちらりと見た。表情がどこか妙だった。

レナは、自分がどれほど怪しく映っているかに気づいた――髪は乱れ、目は赤く、まるで口にするのも憚られるような何かをくぐり抜けてきた直後みたいに。

彼女はコートの襟をきつく握りしめ、顔を窓のほうへ向けた。

見つかってはいけない……。

そうなれば、すべてが終わる。

会社に戻ると、何事もなかったかのように平常運転だった。

昨夜の出来事を知る者は誰もおらず、彼女の青ざめた顔も、わずかに震える指先も、誰にも気づかれない。

レナは無理やり意識を仕事へ引き戻し、積み上がった書類をさばいていった。

「レナ」

背後から低く冷たい声が落ちてきて、彼女の背筋は瞬時に強張った。

振り返ると、そこにキリアンが立っていた。隙のない身なり、感情のない顔。昨夜、理性を失った男が彼だったなど、まるで嘘みたいに。

「今日の午後、エザートンへ出張だ。準備しろ」

レナの指先がかすかに震えたが、職業的な微笑みは崩さない。

「承知しました、ソーン社長」

出発は午後三時。エザートンへ向かうにはちょうどいい時間だ。

レナはデスクで出張の荷をまとめながら、腰と脚の鈍い痛みに、あのばかげた夜を何度も思い出させられた。

――乗り越えられないことなんてない。

そう言い聞かせる。長年秘書をしてきたせいで、段取りだけは身についている。ほどなくして、二人は同じ機内に並んで座っていた。

ビジネスクラスの席は近すぎた。

キリアンがノート端末を打つ手の血管まで見えるほど近い。

彼が視線を落としたとき、まつげが作る影の数さえ数えられるほど近い。

キリアンはメールに返信していた。長い指が鍵盤の上を素早く走る。袖は少しまくり上げられ、手首にくっきりと赤い痕が覗いていた。

――衝動のまま、彼女がつけてしまった引っかき傷。

レナは向かいに座り、書類に没頭しているふりをしたが、神経は限界まで張り詰めていた。

「会議資料」

ふいに、キリアンが顔も上げずに命じる。

レナはすぐにファイルを差し出した。肌が触れないよう、細心の注意を払いながら。

キリアンは受け取ると、眉間にしわを寄せた。

こめかみの脈打つ痛みが、昨夜の異変を思い出させる。

断片的な記憶が、何度も脳裏にちらつく。

祝賀パーティーで飲んだ、妙な味のするシャンパン。

体内で突然爆ぜた熱。

そして、薔薇のかすかな香りをまとった、ぼやけた人影。

「昨夜のパーティーの監視映像を確認しろ」冷たく言い放つ。「カレンスの連中を重点的に」

「承知しました、ソーン社長」

機体が滑走を始める。

キリアンは端末を閉じ、拳の関節をこめかみに当てた。

薬を盛られた。

女をあてがわれた。

なんとも稚拙な手口だ。こんなことを自分に仕掛ける胆力があるのは、愚か者か、狂人かのどちらか。

取締役会のあの老いぼれどもか?

視界の端で、レナが書類を整えている。

今日は珍しくハイネックのシャツを着ていて、長く艶のある髪が肩に流れていた。

ほどなくして客室乗務員がコーヒーを運んでくる。

レナが手を伸ばした瞬間、袖が一寸ずり落ち――

細い手首に、青紫の痣が見えた。

キリアンの目が細くなる。

「ソーン社長?」レナは視線に気づき、慌てて袖を引き下ろした。「資料に不備がありましたか?」

そのとき、機体が急に揺れた。

レナの体が傾く。

キリアンは反射的に手を伸ばした。

薔薇の香りが、ふわりと鼻先を打つ。

昨夜の香りとは違う。

では、いったい誰だ?

キリアンは目を眇める。

この女がどこへ逃げようと、必ず見つけ出してやる。

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