第3章

 あの、空席を見つめる影の映像を脳内から完全に消し去りたくて、気づけば月曜の午前二時、コンピュータサイエンス棟の一〇二号室にいた。

 ラボは一年中、室温が摂氏十六度に保たれている。この時間なら、サーバーファンの低いうなりだけが聞こえるはずだった。

 だが、扉を押し開けた瞬間、隅のワークステーション六番が、冷たい白の画面光を放っていた。

 そこに座っていたのはコービンだった。

 あの派手なスタジアムジャンパーは着ていない。頭に適当に引っかけただけのグレーのフード付きパーカー。机の上には走り書きの紙切れと、空のコーヒーカップが散らかっている。

 ひどく場違いな光景だった。いつもパーティーでは女の子に囲まれているホッケー部の主将が、午前二時に黙々とC++のコードを追っているなんて。

 私は足音を殺す気もなく、近づいた。

 気づかない。彼は画面の上級者向け動的計画法の問題に、視線を釘づけにしていた。眉間にしわ、奥歯を噛みしめるほど顎が固い。

「トップダウンの再帰にしてるでしょ」私は言った。

「それ、スタックが溢れる。メモリ、もうすぐ吹っ飛ぶよ」

 コービンの頭が弾かれたようにこちらへ向いた。私だと分かると、硬直し、それからフードを乱暴に下ろし、両手で顔を拭うように撫で下ろした。目は真っ赤に充血している。

「冗長な計算してるのは分かってる」声はかすれて、いつもの滑らかな魅力が消えていた。

「でも状態の保存の仕方が分かんないんだ」

 視線が、彼の目の前の走り書きに落ちる。

 乱雑なコード片を想像していたのに、そこにあったのは丸と矢印で埋め尽くされた図だった。論理のフローチャートには全然見えない。むしろ――

「これ、ホッケーの戦術ボード?」私は紙を手に取った。

「一―三―一のフォーメーション」コービンが矢印を指さす。

「お前の抽象概念はピンとこねえから、ホッケーのプレーに落としてる」

 彼は背筋を伸ばし、指先を円のひとつに置いた。

「パックが今のデータで、パスのルートが再帰呼び出し。左ウイングがこの位置をカバーしたら、センターはもう一回そこに動かなくていい。これが『空間を時間に変える』ってやつだろ?」

 私は言葉に詰まった。

 教科書がこんな教え方をするはずもないのに、純粋にスポーツの戦術だけで、メモ化の核心を突いている。彼は馬鹿なんかじゃない――空間把握の推論力が、やたらと強い。

「その例え……」私は紙を机に戻した。

「ちゃんと通る」

 彼を評価したのは、これが初めてだった。

 コービンの動きが止まる。自嘲気味に口角を上げた。

「原始人みたいな解き方だって笑われると思った」

「コンパイルさえ通れば、システムは手段なんて気にしない」私は椅子を引いて座った。

「そのロジックをコードに翻訳して。キャッシュの書き方、見せる」

 それから三時間、ラボに響いたのはキーボードの打鍵音だけだった。彼の吸収は驚くほど速く、それでいて終始、距離感はプロフェッショナルだった――協働は協働、ただそれだけ。

 午前五時、コードは無事にコンパイルに成功した。

「動いた」コービンが深く息を吐き、私を見る。

「スローン、なんでいつもそんなに落ち着いてるんだ? まるで、何が起きてもシステムに揺らぎが出ないみたいに」

「データは裏切らないから。これだけ処理能力を与えれば、これだけ出力が返る」私はノートパソコンを閉じた。

「ルールに従わない変数があったら?」彼はまっすぐに私を見つめた。

「中核システムから、完全に削除する」私はバッグを肩に掛け、扉へ向かう。

「初稿の締め切りは明日。遅れないで」

 私は彼を削除しなかった。なぜなら、その後のひと月、彼は自分をとびきり安定したコード片に偽装し続けたからだ――時間厳守で、効率的で、境界線を越えることも一切ない。

 最初にクラッシュしたのは、私だった。

 四週間後。シリコンバレーのハッカソン予選、その佳境の最中に。

 トップクラスの人工知能企業から内定を引き出すための道は、これしかなかった。ニューラルネットワークモデルをリファクタリングするため、私は七十二時間ぶっ通しで最大稼働を続けていた。

 カフェインはもう効かない。胸の奥で心臓ががんがん叩きつける。網膜に焼きついたコードが、滲み始めていた。

「スローン、止めなきゃ。顔、紙みたいに真っ白だよ」リオラが私の机の横に立っていたが、その声はひどく遠くに聞こえた。

「……あと、インターフェースのバリデーションを二つだけ」私は機械みたいに打ち込んだ。息を吸うたび、肺の奥に鋭い痛みが走る。

 あと十分。十分だけ。

 小さく、ぱちん、と音がした。頭蓋の内側で何かが折れた。

 視界が真っ黒になり、死んだみたいに静かになった。身体が落ちていくのが分かった。

 意識が完全に途切れる直前の一秒、誰かが扉を勢いよく叩き開けるような大きな音と、歪んだ叫び声が聞こえた気がした。

 ―――

 次に目を開けたとき、消毒液の刺すような匂いが鼻腔を満たした。大学病院の救急ベッド。手の甲には点滴のラインが刺さっている。

 右手が妙に重い。私は首を動かした。

 コービンが硬いプラスチック椅子に座り、全身を前へ折り曲げるようにして、両手で私の手をきつく握っていた。頭はベッド柵に押しつけるように埋めている。

 私が動いた気配で、彼が目を覚ました。

 勢いよく顔を上げる――金髪は乱れ、顎には無精ひげが濃く影を落とし、例のグレーのフード付きパーカーのまま。何より目を引いたのは、不眠で真っ赤に充血した目だった。

「スローン?」かすれた声で呻き、呼び出しボタンを叩く。

「先生! 起きました!」

 荒い呼吸のまま、彼は私を凝視した。握っている手が、わずかに震えている。

「何が……起きたの?」声はざらついて痛かった。

「心臓が限界で、完全に失神。急性の発作よ」看護師が入ってきてモニターを確認し、コービンにちらりと目を向けた。

「運がよかったわ。あと三十分遅れてたら、点滴だけじゃ済まなかった。あなたの彼氏、あなたを抱えて運び込んだとき、救急の扉ぶっ壊す勢いだったもの」

 私は固まった。

「彼は彼氏じゃない」

「はいはい。どう言おうと、彼は帰ってないわよ。丸二十時間、ずっと付きっきり」看護師は点滴バッグを交換し、首を振りながら出ていった。

 部屋に、また沈黙が落ちた。

 二十時間。私の脳が再起動しようともがく。忘れていたデータが、ふいに浮上した。

 昨夜は、全米大学体育協会の州間選手権決勝――コービンがプロリーグのドラフト推薦状をもらえるかどうかが決まる試合だった。

「今、何時?」私は彼を見た。

「木曜の午後二時」彼も私を見返す。

「スカウトが来る試合、昨夜の八時だった」私は手を引こうとしたが、彼はきっぱり押さえ込んだ。「……行かなかったの?」

 コービンは何も言わない。親指が、手の甲の針跡をそっと撫でた。

「コービン」私の声が冷えた。

「答えて」

「……ああ。行かなかった」彼が目を上げる。真紅の瞳が、真正面から私を打ち抜いた。

「正気なの?」怒りで心拍が跳ね上がり、モニターが忙しなく鳴った。

「私のためにキャリアを潰した? 意味が分からない!」

「くそくらえだ、理屈なんか!」

 コービンが跳ね起き、枕の両脇に手を突いた。むき出しの焦燥と、圧倒的な存在感が私の領域を侵食する。

「お前が息してないまま倒れたんだぞ――そんな状況で、どうやって氷の上でスティック振れってんだ! どうやってあのクソスカウトどもの前でプレーしろってんだよ!」目は恐ろしいほど赤く、声は震えていた。

「ドラフトなんて毎年ある! でも、お前が目を覚まさなかったら、トロフィーなんて何の役に立つ!」

 部屋が、死んだように静まった。点滴が落ちる音だけが、一滴ずつ、規則正しく響く。

 毛布の下で、私の指がゆっくり握り締められる。

 物心ついた頃から、私の人生は精密な計算だった。すべてを有用性で測り、条件と引き換えにされることに慣れてきた。世界は、この底にある論理で動いていると信じていた。

 なのに今、この無敵のホッケー主将は、何百万もの契約金と、十年以上追い続けた夢を、価値のないゴミコードみたいに削除した。

 代替案も、損失の軽減もない。

 ただ、私が目を開けられるようにするためだけに。こんな極端で無謀な行為を説明できるアルゴリズムなんて存在しない。

 怒るべきだった。けれど、手の震えが止まらなかった。

 二十年、論理とデータで積み上げてきた壁を――彼はブルドーザーみたいに踏み潰してきた。計算も、戦略もない。ただ、生の、馬鹿みたいな無謀さだけで。

 私は深く息を吸い、充血した目を見据えた。

「コービン」私は彼の目の下の濃い隈を見て、ゆっくりと言った。

「三か月」

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