第3章
翌日の夜、私は再びコンピュータ室にいた。昨日の絵里との会話を経て、拓也のことは頭から追い出し、自分の上級アルゴリズムの課題に集中しようと決めたのだ。
深夜の研究室はサーバーの唸る音以外、静寂に包まれていた。あのソートアルゴリズムの最適化を続けようとドアを押し開けたその時、隅に思いがけない人影を見つけた。
拓也が、コンピュータの画面を前に眉をひそめていた。机の上には、びっしりと論理図や疑似コードが書き込まれた下書きの紙が散乱している。
ありえない。自分の目を疑った。
「何してるの?」好奇心が頭をもたげ始めているのを抑え、私は冷たい声色を保とうと努めながら近づいた。
拓也が顔を上げた。その目は疲れているのに、普段とは違う集中力を宿していた。
「この再帰的な最適化問題に取り組んでる」
画面をちらりと見て、瞬間、私の瞳孔が開いた。それは上級生ですら苦戦する、動的計画法のアルゴリズム問題だったのだ!
「これ……」私の声がわずかに震えた。
「難しいのは分かってる」と拓也が私の言葉を遮った。「でも、この核心的なロジックを理解したいんだ」
彼の後ろに立ち、画面のコードを注意深く見つめる。心臓の鼓動が速まり始めた。緊張からではない、驚愕からだ。拓也の解法へのアプローチは明確で、まだいくつか構文エラーは残っているものの、そのアルゴリズム的思考は驚くほど洗練されていた。
これが本当に、愛想を振りまくことしか知らなかったあのアスリートなのだろうか?
「どうしてこの分割統治のアプローチを思いついたの?」私は思わず尋ねていた。
拓也が振り返る。その瞳には、今まで見たことのない光が輝いていた。
「プログラミングって、実はバスケの戦略とすごく似てるって気づいたんだ。どっちも論理的な順序立てと、最適解を見つけることが重要でさ。ほら、この再帰なんて選手のパスの経路選択みたいなんだ――再帰の階層ごとに、その時点での最適な判断が求められる……」
私は静かに耳を傾けていた。内なる衝撃が津波のように心を洗い流していく。彼はアルゴリズムの本質を理解しているだけでなく、自分の得意な分野のアナロジーを使ってそれを説明することまでできる。この領域横断的な思考能力は……。
「思ったより、あなたの考えは明晰ね」と私は認めた。彼に肯定的な評価を下したのは、これが初めてだった。
拓也はタイピングの手を止め、まっすぐに私の目を見つめた。
「本気になるための理由が必要だっただけだよ」
頬が熱くなるのを感じた。私がその理由だと、そう言いたいの?
時刻は午前二時近く、研究室に残っているのは私たち二人だけだった。蛍光灯が静かに唸り、外のキャンパスは完全に静まり返っている。
「一つ、質問してもいいかな?」拓也はコードを保存すると、こちらに向き直った。
私は頷き、手にしていた教本を置いた。不思議と、ここを離れたいとは思わなかった。
「どうして情報工学を選んだんだ? 就職に有利だから、ってだけじゃないだろ?」
私は数秒間、黙り込んだ。この質問をされたことはほとんどなかったからだ。大抵の人は、私がこの専攻を選んだのを「頭のいい女子の合理的な選択」だと決めつけていた。
「技術で世界を変えたいの。アルゴリズムが悪用されるんじゃなくて、人類のために役立つようにしたい」私は正直に答えた。
「例えば?」
「アルゴリズムの偏りをなくしたり、AIをより公平なものにしたり。ビッグデータを使って、医療リソースの配分問題を解決したりとか」そこまで話すと、自分の中の情熱に火がつくのを感じた。「技術そのものは中立だけど、プログラマーの価値観がアルゴリズムの振る舞いに影響を与えるのよ」
拓也は考え深げに頷いた。その目には、上辺だけの同意ではなく、心からの理解の色が浮かんでいた。
「あなたは? どうしてこの専攻を選んだの?」と私は問い返した。
「昔はバスケが俺の全てだと思ってた」拓也は率直に言った。「でも今は、何か永続的なものを創り出す方が、もっと意味があるって気づいたんだ。試合の栄光は色褪せるけど、優れたコードは何百万人もの人生を変えることができるから」
胸が締め付けられるのを感じた。彼は本当にそう考えているのだろうか?意味や価値についてのこうした思索こそ、私がずっと求めていた知的な深みそのものだった。
「本当にそう思ってるの?」私は探るように尋ねた。
「明美、俺のこと、ただ遊ぶことしか能がないアスリートだと思ってるだろ」拓也の声は真摯だった。「でも、君と過ごす時間が、俺に本当に大切なものは何かを考えさせてくれたんだ」
静寂の中、私たちの間に広がる窓から、冷たくも清らかな月光が一条の剣のように差し込んだ。その瞬間、心に長年積み重ねてきた理性という名の堅固な防御壁が、初めて微かな音を立てて、亀裂が走るのを感じた。
彼は私が思っていたよりも深みのある人間だった。そう認めると同時に、かすかなパニックを覚える。私の人を見る目は常に正確だったはずなのに、今、拓也に対する最初の評価を疑い始めている。
数日後、週末のキャンパスにあるカフェは、豊かなコーヒーの香りと、静かに勉強や議論に打ち込む雰囲気に満ちていた。私がデータ構造の復習をしていると、拓也がラテを二つ持って近づいてきた。
「ここに座ってもいいかな?」拓也は、以前のように当然のように座るのではなく、許可を求めてきた。
彼を見上げ、私は頷いた。この数日間の拓也の変化を目の当たりにして、彼が予期せぬ形で私の見方を変えつつあることを認めざるを得なかった。
「いくつか、高度なプログラミングの概念について聞きたいんだ」拓也は付箋だらけの分厚い教科書を取り出した。
少し驚いた。教科書に書き込まれたメモは丁寧で詳細――彼が真剣に勉強しているのは明らかだった。私が説明を始めると、驚いたことに、その過程を自分が楽しんでいることに気づいた。
普段なら勉強中に邪魔をされるのは大嫌いなのに、拓也とプログラミングの概念について議論するのは、不思議な喜びを与えてくれた。
「チームの連携って、モジュール化プログラミングみたいなものだな」拓也は聞きながら要約した。「各自が自分の機能を担当するけど、インターフェースの互換性と全体の協調を確保しないといけない」
私は思わず微笑んだ――拓也に笑顔を見せたのは、これが初めてだった。
「その例え、すごく的確ね。確実に進歩してるわ」
「なるほど、そういうことか。君がなぜそこまで没頭できるのか、ようやく理解できた気がするよ。」拓也は、これまで見せたことのない、ある種の啓示を受けたかのような真剣な眼差しで相手を見つめた。「完璧な解決策を導き出すあの感覚は、確かに抗いがたい魅力がある。まるで、どんな難攻不落の陣形も打ち破る、究極の戦術連携を見つけ出した時みたいにね。」
私はコーヒーカップを置き、真剣に彼を見つめた。もしかしたら、この人物を再評価する必要があるのかもしれない。
「変なこと言うな.......でも、あなたに対する私の判断は、早計すぎたのかもしれないわ」そう認めた。その言葉が口から出た瞬間、自分の世界観全体がかすかに揺らぐのを感じた。
拓也の目に喜びの光がよぎったが、彼は冷静さを保とうと努めた。
「じゃあ、本当の勉強仲間になれないかな?」
「勉強仲間?」私はその言葉を繰り返し、心が激しく揺れ始めた。
ちょうどその時、拓也の携帯が鳴った。発信者表示は『明日香 - チアリーディングキャプテン』。
私は息をのみ、彼がどう反応するかを見守りたかった。
しかし拓也は携帯に目をやると、ためらうことなく電話を切った。
「出なくていいの?」私は、彼の返事を期待する気持ちと恐れる気持ちが入り混じりながら尋ねた。
「大したことじゃない」と拓也は言った。「今、俺にとって一番大切なのは、この瞬間よ、君とのこの時間だから」
心拍数が再び上がり、頬が抑えきれずに熱くなる。彼は本気なのだろうか?それとも、これは何か新しい戦術なのだろうか?
拓也への評価が変わりつつある自分に気づいたが、彼が本当に変わったのかどうか、もっと観察する必要があった。
「拓也……」私が何かを言いかけた時、拓也の携帯が再び振動した。
今度はテキストメッセージだった。拓也は携帯に目をやり、素早く数語を打ち返した。
「何でもないよ、チームメイトが練習について聞いてきただけだ」
彼は携帯をしまうと、私に視線を戻した。
「それで、俺の勉強仲間になるって、同意してくれる?」
彼の真剣な目を見つめ、私は頷いた。
「いいわ」
拓也は微笑んだ。
「やった! じゃあ、また明日?」
「また明日」
カフェを出る頃には、自分でも意外なほど気分が高揚していることに気づいた。これはいったい何なの.......











