第1章 婚約者の浮気
綾辻絃葉・私の視点
私と黒鳴蓮夜の結婚式、その前夜。ホテルの一室で――。
酔いの残るままベッドの上でぼんやりと目を開けた瞬間、天井に、あり得ないものがあった。まるで埋め込まれたかのような“画面”。そして、そこに映っている光景を見た途端、血の気が引いた。
「蓮夜兄さん……ずっと好きだったの。今日、やっと手に入る。ねえ、従姉と比べたら……どっちが好き?」
「決まってるだろ。お前だよ、この悪い子」
次の瞬間、ふたりは当たり前みたいに抱き合い、唇を重ねた。
その親密さに、胸の奥が煮え立つ。今すぐ飛びかかって引き離してやりたい――そう思ったのに。
動かない。
身体が、指一本すら。
錯覚かと思った。けれど画面の向こうで、白井琥珀が――私を見ていた。
違う。錯覚じゃない。
あの女は、本当に画面越しに私を覗き込んでいる。
結婚式の準備は自分に任せてほしいと、白井琥珀が父に泣きついたことを思い出す。
今夜のパーティーだって、彼女が取り仕切った。
そして――あの酒。
飲んだ途端、胃の奥が焼けるように苦しくなって……。
そうか。
酒に何か混ぜたんだ。
全部、白井琥珀の仕業。
私に見せつけるために――私の婚約者を奪う瞬間を、目の前で。
この、許せない女……!
殺してやりたい。そう思うのに、全身から力が抜け落ちていて、意識だけが冴えきっている。
怒りで視界が揺れた、そのとき――。
カチャ、とドアが開く音がした。
誰かが入ってくる。部屋は暗くて姿は見えない。けれど男の荒い息遣いが耳を刺し、不吉な予感が背筋を這った。
躊躇もなく、男は私に覆いかぶさってきた。
抵抗できない。声も出ない。ただ、絶望だけが喉の奥に溜まっていく。
長い髪が半分の顔を隠し、薄い唇だけがかろうじて見えた。
男は止まらない獣みたいに――私の身体を、私の魂を、何度も何度も突き上げる。
視線だけを横に滑らせ、天井の画面を見た。
そこには、私の愛した婚約者と、私の従妹。
ふたりは、私の目の前で交わっている。
そして私は、見知らぬ男に犯されている。
悲しみと屈辱が胸を押し潰し、ふたりの会話がさらに私を抉った。
黒鳴蓮夜は脅されてなどいない。自分の意思で、あの女を抱いている。
――耐えられない。
強すぎる悲嘆が、意識を闇へと落とした。
気を失う直前、男の胸に走る長い傷だけがぼんやりと見えた。
胸を横切り、ほとんど貫くほどの――一本の傷痕。
私は夢を見た。
黒鳴蓮夜と結婚し、子どもが生まれ、穏やかで幸せな日々が続く夢。
だが、外の突拍子もない物音に叩き起こされる。
目を開けると、裸の自分、乱れたシーツ。昨夜の狂気が、そこにそのまま残っていた。
夢なんかじゃない。現実だ。
「起きた? さあ……ずっと夢見てた結婚式を始めよう」
ドアの向こうから、黒鳴蓮夜の声。
耳障りで、吐き気がした。
昨夜、彼が何をしたか。私は全部、覚えている。
ドアを開けて頬を張り倒し、全部ぶちまけてやりたい――そう思った。
でも、できない。
昨夜、私も別の男と――。
望んだわけじゃない。それでも、起きたことは消えない。
今日はとにかく取り繕うしかない。残りは……後で。
綾辻家――N市一の富豪の娘の結婚式を台無しにはできない。こんな恥、晒せない。
怒りを噛み殺し、できるだけ平静に言った。
「……少し待って。すぐ行くから」
やがて式は始まり、司会者の前で指輪を交換した。
私は黒鳴蓮夜の腕に手を添え、いつもの作り笑いで親戚や友人、上流の客に応対する。
「悪いね。N市で一番綺麗な子は、これから俺の妻だ。君たちの女神を奪ってすまない」
「そうだな。絃葉は昔から俺によくしてくれた。俺にとって天使みたいな存在だ。残りの人生を懸けて守る」
「安心してくれ。俺は生涯、絃葉だけを愛する。他の女なんて見向きもしない……」
愛情に満ちた目で私を見る黒鳴蓮夜。
その言葉も、その眼差しも――笑えるほど皮肉だった。
昨夜のことを問い詰めたい。
でも、今じゃない。
ぼんやり考え込んだ、その瞬間。
会場がざわめき、客の悲鳴にも似たどよめきが上がった。
大スクリーンには、私と黒鳴蓮夜のウェディングフォトが流れているはずだった。
なのに――映っているのは部屋。
そして、裸の男女が絡み合う映像。
顔は映っていない。けれど誰もが分かる。
女は――私だ。
頭の中で、ブン、と音がした。
身体が固まり、息ができない。
昨夜、撮られていた。
それを、今、この場で――全員の前で流された。
賛辞は消えた。
残ったのは疑惑と好奇の目。
終わった。
私は、終わった。
怒号が二つ重なって響いた。そこに、女の声が混じる。
白井琥珀だ。
「叔父さま、どうか従姉を責めないで……。きっと、私たちが見ている通りじゃ……」
「綾辻賢一! 俺はお前を親友だと思ってきた! 息子の結婚式当日にこんな真似をされて、黒鳴家を潰したいのか!」
父――綾辻賢一は、何も言わない。
私は惨めに父を見上げた。
「お父さん、違うの……聞いて……」
父の背後で、白井琥珀が薄く笑ったのが見えた。
私は反射的に指を突きつける。
「あいつよ! 白井琥珀が私を陥れたの!」
「黙れ! この期に及んで反省もせず、白井琥珀に罪をなすりつける気か! 二十年以上育ててきたが……お前には失望した!」
白井琥珀が慌てたように言う。
「従姉、私のことをずっと見下してたのは分かってる。私を悪者にしたら気が楽になるなら、構わないよ。でも、これは従姉のせいじゃない。私、叔父さまたちに――」
白々しい。
一言一言が、吐き気を催すほど“善意”で塗られている。
今日、ようやく分かった。
こいつの本性を。
「黙れ、この……っ! 私を罠にかけて……!」
パァン――
