第10章 憂さ晴らし
綾辻絃葉視点
上田雄大が固まった。私も固まった。なに、これ。
……彼に掃除をさせる、ってこと?
すぐに状況を飲み込み、胸の奥が跳ねた。いい気味だ。あれだけ私に当たってきた報いが来たんだ。
「遠野さん、あの……」
言いかけて、ふと引っかかった。え、遠野?
苗字が遠野……?
まさか昨夜、夜の街で会ったホストくんが、この人?
こっそり観察すると、体格がどことなく似ている気もする。
でも、もし本人なら、私を覚えていないはずがない。
……いや。もう気づいていて、私のために仕返ししてくれてる?
そう考えた瞬間、妄想が止まらなくなった。もし本当なら、私、運が良すぎる。
「部長のくせに、こんな雑な人間を入れるとは何事だ。お前の責任は免れない。5分で綺麗にしろ。できなければ霧島さんに報告する」
「や……やめてください……! お、俺がやります! 掃除します!」
上田雄大は悔しさと屈辱を顔に貼りつけたまま便器の前へ行き、道具を掴んで掃除を始めた。途中、えづいて何度も吐きそうになっている。
その様子が、たまらなく痛快だった。
私たちはその場を離れず、掃除が終わるのを見届けた。すると遠野さんは眉を寄せる。
「この便器は外して廃棄。新品に交換だ」
「……は?」上田雄大の顔が引きつり、完全に崩れた。
私は堪えきれず、吹き出した。どうせ恥をかかせるなら、徹底的に。最高。
遠野さんが踵を返す。私は慌ててあとを追いかけたが、笑いが止まらなかった。
エレベーターの中。私は遠野さんの背中に向かって、探るように声をかける。
「……あの、ホストくん?」
遠野さんが振り向いた。
「俺のことを呼んだのか?」
本気で困惑している顔。私は一気に自信を失った。……外れ?
首を振って誤魔化す。
「すみません。独り言です」
遠野さんは私をトイレまで案内すると、そのまま去っていった。
中へ入ると、一角だけ妙にぽっかりしていて、床に跡が残っている。……ここ、前は噴水だったんじゃ。
ということは、霧島雲は昨日の件で、本当に全部のトイレの噴水を撤去したの?
なんて器の小さい男。
――
霧島雲視点
「……今、誰か俺の悪口を言ったか?」
鼻をこすり、戻ってきた遠野陽を見る。
「片づいたか?」
遠野陽は頷いた。
「はい。済ませました。それと、お兄さん。もともと清掃を担当していた専任は、解雇しておきました」
「……お兄さん、あいつは真面目にやってましたよ。なぜ――」
俺は冷たく言う。
「昨日、俺のトイレに『他人』が入れたのはなぜだ?」
遠野陽が眉をひそめた。
「……意図的だと?」
「故意かどうかは関係ない。ミスをしたなら罰は必要だ。それで、ずいぶん時間がかかったな」
遠野陽がさっきの出来事を一通り話す。俺は聞き終えると頷いた。
「分かった。もういい、行け」
遠野陽が出ていったあと、少し置いてから立ち上がり、トイレへ向かう。
入口に着いた瞬間、中から聞こえた。綾辻絃葉の独り言だ。
「ほんっと小心者……噴水のことなんて言わなきゃよかった。撤去したせいでこの辺まで掃除しなきゃいけないし、疲れる……霧島雲、絶対なんか病んでる。ひとりで使うくせに無駄に広いし、ほんと浪費」
拳を握り締め、そのまま中へ入った。
気配に気づいた綾辻絃葉が振り返る。俺の姿を見た瞬間、表情が明らかに強張った。
「社長、お、おはようございます……」
俺は淡々と口にする。
「何を緊張してる?」
「わ、私……社長を見たら……その、感激して。だって社長、すごく格好いいので」
悪くない。俺はそれで見逃してやることにした。
「出ていい」
彼女が去っていく背を見送りながら、俺は小さく笑った。面白い女だ。
そのとき遠野陽から電話が入る。
「お兄さん。チップを盗んだ人間の足取りが掴めました。雨游通り付近です」
俺の目が鋭くなる。
「そうか。人を回せ。必ず確保しろ」
「了解です」
通話を切り、用を済ませると、急いで外へ出た。
――
綾辻絃葉視点
どこで待っていればいいのか分からない。出勤2日目だし、とりあえずトイレの前で立っていた。
そのとき、子どもの学校から電話が鳴った。私は慌てて出る。
「はい。……え? 真之がケンカ? ……分かりました、すぐ向かいます」
切ったタイミングで、ちょうど霧島雲が出てきた。
「社長、すみません。お休みをいただけませんか。急用が……!」
霧島雲は私を一瞥し、短く言った。
「いい」
「ありがとうございます!」
頭を下げ、走り出そうとした私に、背後から声が飛んだ。数歩先で霧島雲が立ち止まっている。
「掃除、よくやった。経理で2万受け取れ。ボーナスだ」
「……えっ。本当にありがとうございます!」
遠野瑛士にお金を借りるべきか悩んでいたのに、まさかの臨時収入。霧島雲、思ったより鬼じゃないのかも。
経理で受け取り、私は学校へ急いだ。
学校。職員室。
そこには私の子どもたち三人と、向かいに座る小さな男の子、その両親がいた。
私は綾辻真之に尋ねる。
「どうしたの?」
真之は相手の子を指さした。
「こいつらがクラスの子をいじめてた。女の子がいて、ずっとからかわれてて……さっきなんか、股の下をくぐれってやってた。見過ごせなくて、俺が手を出した」
その言葉に、先生たちの顔が一瞬引きつった。
真之は嘘をつかない。私は息子を信じる。
私は立ち上がり、相手の親を見る。
「今、聞きましたよね?」
二人は気まずそうに目を逸らし、それでも開き直る。
「だから何ですか? 先に手を出したのはあなたの息子でしょう。理由がどうであれ、あなたたちが悪い!」
「うちの子、目まで腫れてるんです! ちゃんと落とし前つけてもらわないと終わりません!」
理屈も善悪もない。こういう親に甘やかされて、子どもも歪むんだ。
「……で、どういう『落とし前』を?」
「簡単です。うちの子を病院で検査させる。その費用と、慰謝料20万」
私は鼻で笑い、先生に視線を向けた。
「学校内にいじめがあるのに、放置してきたんですよね。ここまで拗れた以上、先生方にも責任があります」
一人の教師が言い返してくる。
「でも、殴ったのはあなたのお子さんが先です」
無責任にもほどがある。稼げるようになったら、真っ先に転校させよう。金がかかってもいい。こんな学校に置いておけない。
私は結論を出した。
「……なら、警察を呼びましょう」
「呼べばいいでしょ! 先に手を出したのはそっちなのに、よく言うわ!」相手の母親が喚き散らした。
