第11章 滝川天裕

綾辻絃葉視点

同時に、あの子の父親がじり、じりとこちらへ詰めてきた。威圧で黙らせるつもりなのだろう。――正直、効いた。私は反射的に一歩、また一歩と下がってしまう。

そこへ綾辻真之が割って入って、私の前に立った。

「うちの母さんに近づくな! これ以上来たら、俺が相手してやる!」

「威勢だけはいいな」

男が真之を懲らしめる気で腕を上げた瞬間、私は慌てて真之を抱き寄せ、庇う。

――その手が、止まった。

私と真之の前に、ひとりの男が立っていた。伸びてきた腕を掴み、淡々と言う。

「女と子どもに手を出すとか、恥ずかしくないんですか」

どこか聞き覚えのある声に、私は目を凝らした。次の瞬間、息を呑む。

昨夜、上田雄大に押し込まれた部屋で――彼を蹴り飛ばした男だ。

「……あなた?」

胸の奥が、ふっと軽くなる。自分でも驚くくらい、嬉しかった。

相手の目にも、わずかな驚きが浮かんだ。まさかこんなところで、という顔。

「あなたか。……しかし若いのに、もうこんな大きい子がいるとは」

「ふふ、事情はいろいろで」

男の隣には、もうひとり女性がいた。

男がそちらへ短く言う。

「彼女、俺の知り合いなんだ。悪いけど、お願いできる?」

女性は頷き、相手の親のほうへ進み出て、落ち着いた口調で話を始めた。

私は男と並んで立つ。

「自己紹介、まだでしたね。滝川天裕です」

「綾辻絃葉です」

滝川天裕は眉を少し上げた。

「安心して。彼女、この学校の副校長なんで。出てくれたら、大事にはならない」

「ありがとうございます。あなたがいなかったら……私、本当にどうしたらいいか……」

そう言ってから、自分の声が少し震えているのに気づく。

十分ほどで、副校長がこちらへ戻ってきた。

「お待たせしました。解決です。保護者の方、本日はご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」

滝川天裕がさらりと口を挟む。

「俺の友だちなんで。今後、彼女の子のこと、ちょっと気にかけてもらえると」

「ええ、もちろんです」

私は礼の言い方を探しながら、思い切って言った。

「……もしお二人がよければ、コーヒーをご馳走してもいいですか」

二人は顔を見合わせ、少し考える。

私は付け足す。

「お友だちになれたら嬉しいですし」

副校長と関係を作っておけば、子どもたちのことで何かあったとき助けを求められるかもしれない――そんな打算も、正直あった。

二人は頷いてくれた。

カフェで、大人三人が一卓。私の三人の子どもたちは、少し離れた別の席だ。

今日はこんなことがあった以上、このまま学校に置いておく気にはなれない。二人と別れたら、子どもたちを連れて少し買い物でもしよう。日用品も切らしていたところだ。

――なのに。

私たちが二言三言かわしたところで、背の高い女がすっと近づいてきた。私たちの前に立つなり、横へ手を招く。店員が椅子を運び、女はどかっと腰を下ろした。

脚を組んで、ただこちらを睨むように見つめる。無言のまま。

意味が分からず、副校長と滝川天裕を交互に見ると、滝川天裕が困ったように苦笑した。

「日那……」

女が冷ややかに笑う。

「いい度胸じゃない。私の店で、ほかの女とデート?」

滝川天裕が答えるより早く、隣の副校長が言い放った。

「滝川天裕は、私――栗山杏美の男よ。身の程を知って、近づかないで」

私は思わず口を押さえた。

滝川天裕が栗山杏美と付き合っているのに、前の女がやってる店に連れてくる……? しかも、このカフェは滝川天裕が勧めた店だ。

昨夜のことまで思い出してしまう。夜の街でホストと絡んでいた、あの空気。――この男、どれだけ手広いの。

私は内心、目が離せなくなっていた。

渡辺日那は鼻で笑う。

「あなたの男? こいつに女が何人いるか知ったら、そんな口叩けないよ。あんた――」

栗山杏美が、さらっと言い切った。

「もちろん知ってる。近所なら、1kmごとに最低ひとりは彼の彼女がいる。それが何? 好きだから。私は気にしない」

渡辺日那が滝川天裕へ視線を移す。

「外に出て。じゃないと、あの件、教えてあげない」

滝川天裕が立ち上がる。迷いがない。渡辺日那の後を追って、店の外へ出ていった。

二人が消えると、栗山杏美は露骨に顔を曇らせ、苛立ったようにコーヒーを一気に飲んだ。

私は言葉を選びながら切り出す。

「……あの、滝川さんって、そんなに……それでも、あなたは……」

「あなたは彼のこと、分かってないだけよ。知れば、そんな言い方はしない」

栗山杏美は肩をすくめる。

「この辺の可愛い女、ほとんど彼と関係あるし、みんな気にしてない。あなたは――」

「私は……世界がよく分からなくなってきました。それに、今の、渡辺さんに脅されたみたいでしたよね。彼がついて行って……嫉妬しないんですか?」

「しない。彼が一線を越えるような真似はしないって、私は信じてる。彼は、この世界でいちばん人間が出来てる男だもの」

頭が止まった。

1kmごとに彼女がいる男が、人間が出来てる……?

そんな評価、ある?

「……何の話なんですか」女の好奇心には勝てない。私も例外じゃない。

栗山杏美は軽く指を鳴らすように言った。

「探してるのよ。ひとりの女を」

「渡辺さんが、その人の情報を?」

「そう。あの女が本当に掴んでるかは怪しいけどね。――その女が彼には大事。だから焦って出ていった」

「それって……」

「うん。あなたの想像どおり。彼の、忘れられない人」

私は言葉が詰まった。

「いや……あなたも……彼も……」

栗山杏美は立ち上がる。

「そのうち真相を知ったら、あなたも分かる。……私は行く。あの女、私と彼を引き離したいだけだもの。好きにさせない」

「コーヒー、ご馳走さま。じゃあね」

「……さようなら」

呆然と見送ってしまった。

滝川天裕という男に、濃い興味が湧いてくる。あれほど奔放で、それでも女たちから妙に肯定される男。どういう理屈で成り立っているのか、気になって仕方ない。

でも、今はそれどころじゃない。

私は頭を振り、子どもたちがデザートを食べ終えるのを待ってから、三人を連れてショッピングモールへ向かった。

「母さん、金ある? 欲しいものがあるんだけど」

綾辻真之を見て、私は笑う。

「もちろん。はい、これ」

さっきの場面で、必死に私を守ろうとした子だ。そこをケチる気にはなれない。

綾辻拓哉が唇を尖らせる。

「俺だって母さん守れるし」

「うんうん、分かった。拓哉も母さんの頼れる男の子だよ」

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