第2章 白井琥珀の復讐

頬を押さえたまま、呆然と父を見上げる。

父が私に手を上げたのは――これが初めてだった。

「もういい! 綾辻家にお前みたいな娘はいない。出て行け! 今日からお前は、俺――綾辻賢一の娘じゃない!」

吐き捨てるように言い放つと、父は疫病神でも避けるみたいに背を向け、そのまま去っていった。

私はただ立ち尽くし、次に黒鳴蓮夜の父親を見る。

あの人も同じだった。露骨な嫌悪を目に浮かべ、私を一瞥しただけで踵を返す。

――昔は、実の父より優しくしてくれたのに。

もう一度、黒鳴蓮夜へ視線を向ける。

彼の瞳にあるのは、驚愕と――痛いほどの悲しみ。

「お前……お前……」

結局、彼は何も言葉にできなかった。

そして彼も、私の前から消えるように会場を後にした。

大切な人たちが、次々と私から離れていく。

耐えられない。息が詰まり、私は逃げるようにその場を飛び出した。

通りの向かい、建物の陰。角に身を押しつけて震えていた、そのとき――白井琥珀が追ってきた。

私は唇を噛み、怒りに任せて睨みつける。

「全部あんたのせいよ! 私を陥れた!」

白井琥珀はくすりと笑った。勝ち誇ったように。

「従姉、何の話? さっぱり分かんないな」

その笑い声で、最後の理性がぷつりと切れた。

「白井琥珀……! あんたがずっと黒鳴蓮夜を好きだったの、知ってる! でも彼は私の婚約者だった! 手に入らないからって結婚式の前日に誘惑して……私を、他の男に汚させてまで奪うの? 私はあんたに十分よくしてきたでしょう!」

胸の奥が、すうっと冷えていく。自分も、父も――馬鹿みたいだ。

「綾辻家は白井家に尽くしてきた! あんたの父親が何もできなくても、うちの父は会社に入れて面倒を見た。何をするにも連れて回って……住む家だって、うちの屋敷に住まわせた! それが、あんたの返し?」

「返し?」

白井琥珀は鼻で笑った。

「うん。認める。全部、私がやった」

「どうして……!」

声が震える。喉が痛い。

「どうして? ふふ……ねえ、私が初めてあんたの家に入ったときのこと、覚えてる?」

彼女は、懐かしむような口調で続ける。

「窓辺でピアノを弾くあんたを見た。高貴で、天使みたいで。所作は優雅で、優しくて、堂々としてて……女の私ですら、目を奪われた」

「それに比べて私はただの一般人。惨めで、情けなくて……息ができなかった」

「なのに、どうしてあんたはあんなに上にいられるの? どうしてあんたの家はあんなに金持ちなの? N市一の富豪? どうして欲しいものが全部手に入るの?」

「どうして世界の“いいもの”は全部、あんたのところに集まるの?」

「私がずっと好きだった黒鳴蓮夜まで、あんたに夢中になるなんて」

その間も、私の指先は勝手に震え続ける。

そして、吐き捨てる。

「どうして? あんたは何もかも持ってるのに、私は隣で見てるだけなの?」

「……あんたがくれた“施し”は、全部侮辱だった」

「私はあんたが大嫌い。嫉妬で狂いそうだった。だから壊したかった。全部奪って、全部消して、何も残さず」

「ほら、成功した」

笑いを含んだ声が、耳を刺す。

「ねえ、昨夜はすごかったでしょ? 男の味はどうだった? はははっ」

「……っ」

息が詰まる。怒りだけが煮えたぎるのに、言葉にならない。

「何? 上にいるお姫さまも怒るんだ?」

「殺したい? 殺したいよね?」

――殺したい。

そう思って、立ち上がろうとした瞬間。

ドンッ、と衝撃。

白井琥珀の蹴りが肩に突き刺さり、私は地面に転がった。アスファルトが頬を削る。

彼女は私の頭を踏みつけ、冷たく笑う。

「そうだ、聞き忘れてた。昨夜、私と黒鳴蓮夜の“お楽しみ”、見てた? どうだった? あの人、私の身体に夢中だったよ」

「あなたの男は私のもの。あなたの全部も、これから私のもの」

言葉で魂を削られ、頭を地面に押しつけられる。

私は震えながら泣いた。悔しくて、痛くて、息ができない。

「綾辻絃葉、今のあなた、野良犬みたい」

白井琥珀は、優しいふりをした声で言う。

「誰にも見つからないところで静かに死んで。これが私の最後の慈悲」

「私、黒鳴蓮夜を慰めなきゃ。昨夜あんなに激しかったんだもんね……ふふ」

そう言い残し、彼女は去っていった。

私は歯を食いしばり、屈辱を飲み込んで立ち上がる。帰らなきゃ。父に会うんだ。

話せば分かる。私は娘だ。さっきの言葉は怒りの勢いで――本気のはずがない。

父だけが、私の最後の藁。

そう思うと、胸の奥に無理やり火が灯る。

私は家へ走った。全部話して、真実を伝える。父なら、きっと――。

ようやく門の前に辿り着いた、その瞬間。

頭上に影が落ちた。

べちゃり。

嫌な音とともに、赤黒いものが地面に広がる。

足が止まった。息が止まった。

そこにいたのは――父だった。

……自殺?

この変事に耐えられず、父は……?

胸の奥が、崩れ落ちる。

私が父を殺した? 私のせいで?

世界が、音を立てて壊れた。

私はその場に崩れ、遺体の傍に膝をつく。

まだ体温が残っている。昼には、生きていたのに。

「……お父、さん……」

嗚咽で声が掠れる。何度呼んでも、返事はない。

私の人生で、たったひとりの家族が――いなくなった。

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