第3章 五年後
五年後。
三人の子どもたちが、ちょこちょこと小走りでこちらへ駆けてくるのを眺めながら、胸の奥にじんわりとした感慨が湧いた。
この子たちは――五年前、あの見知らぬ男との間にできた子だ。妊娠を知ったときの私は、人生のどん底にいて、中絶のことを考える気力すら残っていなかった。
もちろん、それだけじゃない。
私は家族が欲しかった。誰かと一緒にいたかった。だから産んだ。三つ子を。
男の子が二人、女の子が一人。
背後では、中年の女性が家の中から大きな荷物をいくつも運び出し、車の荷台へと手際よく積み込んでいる。
三浦都子。
綾辻家に仕えていた元家政婦だ。綾辻家が没落しても、彼女は義理を捨てなかった。彼女がいちばん苦しかった頃、綾辻家が手を差し伸べた――その恩を、都子は忘れなかったのだろう。今の私がどれだけ落ちぶれても、離れず、五年間文句ひとつ言わずに子どもたちを一緒に育ててくれた。
都子さんがいなかったら、私はこの五年をどうやって生き延びていたんだろう。
私の中では、もうとっくに――家族だった。
五年前。父の遺体を前に呆然としていた私を、引き上げてくれたのも彼女だ。
都子さんは私の手を掴み、そのままN市を離れさせた。
あとになって知った。父の会社は倒産していた。
ぼんやりと、思い当たる。
父は、あの縁談で黒鳴おじさんの力を借りて、危機を乗り切るつもりだったんじゃないか。
けれど私のせいで、あの結婚式は誰にとっても笑いものになった。
あれだけの打撃を一気に浴びて――父は耐えきれず、自ら命を絶ったのだろうか。
分からない。全部、私の推測にすぎない。
都子さんは私を守るため、故郷の梨花町へ連れてきてくれた。
そして今、子どもたちも大きくなり、小学校へ上がる年齢になった。より良い教育を受けさせたい。だから、私はN市へ戻ると決めた。
五年前、私は誓った。
自分のものだったはずのすべてを、取り戻すと。
なのに――この五年は、生きるだけで精一杯だった。生活そのものが、私を押し潰した。
まさか自分が、料理をして、洗濯をして、薪を割って火を起こし、車を運転する日が来るなんて。
一生縁がないと思っていた暮らしを、私はここで五年も積み重ねてしまった。
働いて子どもたちを養いながら、私は学んだ。
父も財産もない私が復讐を果たすなんて、天を掴むより難しい。
それでも、やる。
復讐は、私が生きるための燃料になってしまった。
気が緩みそうになるたび、五年前の闇を思い出す。すると、また足が動く。
貯金をかき集めて、私は7人乗りの中古車を買った。移動の足としては十分だ。
車内で、私は息子に声をかける。
「真之。あなたたち三人、最近毎日みたいに草屋に行ってるけど……何か隠してるんじゃないの?」
ルームミラー越しに見ると、綾辻真之は目をくるりと動かし、にへらっと笑った。
「隠してないってば。草屋でおままごとしてただけだよ」
私は肩をすくめ、エンジンをかけようとした。
そのとき、見知らぬ夫婦が声をかけてきた。行き先を尋ねられ、相乗りさせてほしいという。
この町に五年も住めば、近所の顔はだいたい分かる。でもこの二人にはまるで覚えがなかった。
ただ、このあたりは観光客も多い。毎年、遊びに来る人はいる。
ガソリン代の足しになるなら――そう思い、私は試しに料金を口にした。二人はあっさり払った。
少しだけ、得した気分になる。
車は走り出し、やがて一時間半ほど経った頃、その夫婦は急に「ここで降りたい」と言い出した。
私は親切心で声をかける。
「お忘れ物ないですか?」
二人は答えもそこそこに、落ち着かない様子で早足に離れていった。
少し先に、車を確認している警官が見えた。
妙な考えが頭をよぎる。――あの二人、何かやらかした? だから警察を怖がった?
けれど深追いはしない。
警官に私の情報を確認され、問題なしと分かると、そのまま通されただけだった。
……ところが。
別れてから一時間ほど経った頃、車内で聞き慣れない着信音が鳴り出した。
「え……うそ。携帯、車に置いてったの?」
私はそのスマホを手に取り、運転しながら通話ボタンを押してしまう。
『もしもし。あの、私の携帯拾いました? それ、私のなんですけど……あなた、どなたですか?』
「さっき乗せた者です。降りるときに落としたみたいですね」
『あの……届けてもらえませんか? お礼はしますから』
私はもうN市に着いていた。ここから戻れば、少なく見積もっても160km。往復で、走行距離はさらに伸びる。正直きつい。
でも報酬と言われると心が揺れる。
その瞬間だった。
電話に気を取られた一瞬の隙。
車が――前方の高級車に、ドンッと突っ込んだ。
「……っ!」
血の気が引いた。顔から熱が消える。
なんで小金欲しさに乗せたんだ。
なんで運転中に電話なんか――。
全部、手遅れだ。
私は震える足で車を降り、相手の車を見た。
ロールスロイス。しかも、限定仕様のファントムに見える。擦っただけでも、私の人生が終わりかねない。
「申し訳ありません……! わざとじゃないんです。修理代は必ず……ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
声がかすれる。払えるはずがない。それでも言うしかなかった。
と、ロールスロイスの窓が静かに下がった。助手席の男が言う。
「いい。社長に用事がある。例のものがなくなった。ここで時間を食うわけにいかない」
運転席のスーツ姿の男が短く返事をし、助手席の男がこちらを見た。
「次から気をつけろ」
それだけ言うと、車はそのまま走り去った。
私は何度も頭を下げ、去っていく車を見送った。
追及されなかったことに、感謝しかない。そうでなければ、私は本当に――どうすればよかったのか。
……だが。
車が離れていく一瞬、後部座席に男が座っているのが見えた。
上半身は裸。胸のあたりに、目を疑うほど鮮烈な傷痕が走っていた。
そして、その男は――こちらを見ていた気がした。
傷痕。
息が止まりかける。心臓が、冷たく縮む。
――あの男だ。
間違いない。五年前、私を抱いた、あの男。
「待っ――」
声にならない。ロールスロイスはもう遠い。
茫然と立ち尽くしたところで、さっきのスマホがまた鳴った。
全部の始まりは、このスマホだ。
私は苛立ちと疲労を押し殺し、通話に出る。
『あれ、なんで切ったんですか?』
「遠すぎます。警察に届けますから、あとは郵送してもらってください」
言い切って、切った。
そしてそのまま警察へ向かった。
手続きを済ませ、私は子どもたちを連れてアパートへ向かう。
60平方メートルほどの部屋を借り、家賃を半年分払った。
私と都子さんで最低限の荷ほどきを終えると、次は子どもたちの入学手続きと、私自身の面接準備だ。
お金がない。だから、ひとまず普通の公立小学校に入れるしかない。それでも学期ごとの費用は決して軽くなかった。
家賃、学費、生活必需品。
それらを差し引くと、手元に残ったのは10万円ほど。
焦りがじわじわと胸を締めつける。
一週間後。
私は三人を学校まで送り届け、その足で盛天グループへ車を走らせた。
この一週間で履歴書は50通以上出し、面接は30社を超えた。落とされるか、「後日連絡します」と言われたきり音沙汰なし。
採用の電話が来たのは、ただ一社――盛天グループだけだった。
おかしい。
小さな会社にすら相手にされない私を、どうして商業帝国の頂点にいるような会社が拾う?
それでも、行ってみるしかない。
私はハンドルを握り直し、前を見据えた。
