第4章 トイレ掃除
盛天グループ。
会議室はがらんとしていた。
――面接、だよね? なのに、誰もいない。
首をかしげていると、ひとりの女の子が入ってきた。哀れむみたいな目でこちらを見てくるから、理由も分からず居心地が悪い。
「こんにちは。応募に来た方ですよね?」
「はい」
「ええと……今、うちの会社で欠員が出ているのは、トイレ清掃の方なんです。採用、ということで」
耳を疑った。顔が引きつる。
「……何ですって? 私、スタン大学卒なんですけど。御社でトイレ掃除をしろって言うんですか」
胸の奥がムッと熱くなる。それでも、声だけは落ち着かせた。今までの躾も経験も、こういう時ほど冷静でいろと囁く。
女の子もさすがに変だと思ったのか、困ったように説明する。
「その……配属は採用側が決めました。月給は20万です。部長からは、受け入れられるなら残って、無理なら辞退していい、と」
月給20万。
言葉が喉で止まった。トイレ掃除なんて屈辱だ。けれど――清掃でその額は、正直あり得ない。
頭の中で天秤が揺れる。わずかなプライドと、家庭の重み。
でも、すぐに答えは出た。今の私には選ぶ権利なんてない。今日断ったら、この月すら乗り切れない。
私は小さくうなずいた。
「……分かりました。受けます。契約、お願いします」
女の子は申し訳なさそうに首を振る。
「すみません。マネージャーが、まず半月は試用期間にって。残るなら、今すぐ現場に入ってもらいます。基準は担当者が説明するはずなんですが……」
――悪意。そんなものが、最初から纏わりついている気がした。
私、採用担当に何かしたっけ?
けれど、もう残ると決めた。私は女の子に案内され、トイレへ向かった。
本来なら清掃基準を教えてくれるはずの責任者は見当たらない。仕方なくモップを取り、床を拭き始める。
トイレは三つ。男子、女子、そして――「特別」とでも言いたげな一室。
障がい者用、ってこと?
興味に引かれて近づき、扉を開ける。中の造りに目を見張った。豪華すぎる。小さな噴水まであるなんて、トイレで見たことがない。便器が脇になければ、ここをトイレだと思わなかったかもしれない。
個室はどうなってるんだろう、とさらに踏み込み、扉に手をかけて開け――固まった。
目の前に、冷えた刃みたいな顔。
男が、呆然と私を見ている。まるで、こんな事態そのものが初めてだと言わんばかりに。
私も息を呑む。誓って言う。中に人がいるなんて、想像すらしてなかった。
――というか、誰だよ、トイレで鍵かけないの。
視線が勝手に下へ落ちる。そこにあるものを見て、脳が一瞬フリーズした。
男がようやく我に返り、低い声を落とした。
「誰が入れと言った」
やばい、と思って私はすぐ頭を下げた。
「すみません。今日からの新人で、規則がまだ――」
「開ける理由にはならない」
思わず口が滑る。
「鍵、かけないほうが悪くないですか」
男の顔がみるみる青黒くなる。
「閉めろ。出ていけ」
「……はい」
私は慌てて扉を閉めて外へ出た。心の中で毒づく。なんなの、あの人。病気?
廊下に出ると、周囲の社員たちがいっせいに顔を上げ、こっちを見た。動物でも眺めるみたいに。中には、なぜか親指を立ててくる人までいる。
呆気に取られていると、近くの女の子が寄ってきた。
「やば……すごい。ほんとすごいよ、あなた。あそこ入ったんだ?」
「え?」
「知らないの? あそこ、盛天グループ社長の専用トイレだよ」
頭が追いつかない私に、女の子は続けた。
「うちの社長、潔癖でさ。会議で各階回るから、どのフロアにもトイレ三つあって、そのうち一つが社長用。誰も入っちゃダメ。清掃も専属。しかも今日、社長が中にいたとか……終わったね」
「えっ……私、クビになります?」
真っ先に浮かんだのはそれだった。仕事がなくなったら給料がない。給料がなければ、子どもを養えない。
「霧島さんは、私たち末端には直接キレないよ。でも責任者を呼びつける。つまり……あなたの上が死ぬ」
そういうことか。社長が不快になれば、その怒りは必ず下へ落ちる。そして最後に、私へ。
最悪だ。ちゃんと頑張ろうと思っただけなのに。
バタバタと足音がして、少し頭の薄い中年男が駆けてきた。
その顔を見た瞬間、私の胸がすうっと冷える。
――だから、ずっと悪意を感じてたんだ。
上田雄大。
かつて父の会社にいた男。職権で若い女の子に手を出し、何人も泣かせた。発覚した時、父は激怒して彼をクビにし、「二度とN市に戻るな」と言い放った。
けれど父が死んで、縛りは消えた。
そして今、ここにいる。
……私への報復。そう考えるのが自然だった。
その時、個室からさっきの男が出てきた。私を一瞥し、次に上田雄大へ視線を移す。
「お前が採ったのか」
上田雄大は青ざめ、悔いるようにうなずく。
「霧島さん、ご安心ください。私が――」
男は片手を上げて制し、私のほうへ二歩だけ近づいた。氷みたいな声。
「足音がしないのか」
――私が忍び込んだみたいに、聞こえた。
「たぶん……噴水の音が大きくて、足音が消えたんだと思います」
男は短くうなずき、上田雄大へ言い捨てた。
「撤去しろ」
それだけ言うと、私を避けて踱るように去っていった。
上田雄大は周囲を睨みつける。
「何見てる。暇か」
社員たちは慌てて視線を落とし、それぞれの作業に戻る。上田雄大は私へ向き直り、鼻で笑った。
「綾辻お嬢様。八年ぶりですね。お変わりなく」
喉が詰まる。言葉が出ない。――この男が、私を逃がすわけがない。
「……話がある。来い。オフィスで」
***
オフィス。
上田雄大は椅子に深く座り、脚を組んだ。
「綾辻絃葉。入社初日で、いきなり大穴ですか。さあ、どう落とし前をつける?」
逃げ道はない。ここに上田雄大がいる限り、私はこの会社で安らげない。
月給20万は魅力だ。でも――残っても地獄だ。
私は覚悟を決めた。
「分かりました。今すぐ辞めます」
背を向けた瞬間、上田雄大の淡々とした声が背中を刺す。
「待て。辞めるなら、お前がN市で生きられないようにしてやる。このドアを出たら、N市じゃ夜の店以外、どこにも雇われない。そうしてやる」
