第5章 歓迎
「……あんた!」
怒りで全身が熱くなるのに、どうにもできない。
彼が口にしたのは、かつて父が彼に投げつけた言葉そのものだった。八年経って、今度はそれを――寸分違わず私に返してきたのだ。
「……どうしたいの?」
上田雄大は鼻で笑い、薄い嘲りを滲ませる。
「当時、お前の親父は俺にひどいことをした。だが俺は心が狭い男じゃない。お前を受け入れて、仕事まで用意してやった。それだけで誠意は十分だろ」
「ここ数日、あちこち面接受けても、どこにも拾われなかった。悔しかったんじゃないか?」
私は睨み返した。
「あなたが裏で手を回したの?」
上田雄大は首を振る。
「買いかぶりすぎだ。お前が単に、役立たずって可能性は考えないのか?」
――笑わせないで。
胸の奥で冷たく笑い、当然、そんな言い分を信じる気はなかった。
「結局、どうしたいの?」
「安心しろ。俺は寛大だ。仕事をやったんだ。感謝しろよ。『ありがとうございます』ってな」
奥歯をぎり、と噛みしめる。挑発されればされるほど腹が立つのに、今の私は抗えない。
「どうした? 言えないのか?」
結局、私は唇を噛みながら、絞り出すように言った。
上田雄大は満足げに口角を上げた。
「へえ、案外素直じゃないか。やっぱり今のお前のほうが見ていて気分がいい。そうだ、今日が初出勤だろ。歓迎の儀式を用意してやった」
「黙ってるってことは了承ってことでいいな。採用部と衛生部の連中も来る。場所は……お前が昔よく行ってた『夜色』だ」
「それから仕事に戻れ。退勤までに1階から13階までのトイレを規定どおりに仕上げろ。できるよな。俺は信じてるぞ」
私は何も言わず、踵を返して社長室を出た。
窓の外の景色を見ながら、思わず自嘲が漏れる。
虎が平野に落ちれば犬に欺かれる――まさにそれだ。
父が生きていたら、こんな……。
父のことを思い出した瞬間、胸が締めつけられた。私が父を殺したも同然だという罪悪感が、今も消えない。
ぐちゃぐちゃの思考を無理やり振り払って、作業に戻る。
人生なんて、そんなものだ。不幸が積もり、力がなければ耐えるしかない。
一日中動き回り、退勤間際。私は腰に手を当て、道具を置いてエレベーターに乗り込んだ。
止まる暇もなく動き続けて、ようやく全部、終わった。
――途中、うっかり社長の下半身を見てしまったせいで、三つ目のトイレは私が掃除しなくていいと分かったのは、不幸中の幸いだった。あれがなければ、倒れていた。
エレベーターの中で息を整えようとした、そのとき――また、あの男がいた。
盛天グループ社長、霧島雲。
顔を合わせた瞬間、私の中の空気が凍る。どう反応すべきか分からない。謝ろうと気持ちを整えかけたところで、霧島雲の傍らの護衛が無機質に告げた。
「こちらは社長専用エレベーターです。降りてください」
「……え?」
呆気に取られる。トイレが専用なのはまだしも、エレベーターまで専用? この人、本当にどうかしてる。
霧島雲が手を上げ、護衛を制した。軽く指を払うと、護衛は頷き、途中階で降りていった。
霧島雲の視線が私へ移る。私は慌てて口を開いた。
「その……本当に、わざとじゃなくて」
「見たのか?」
「……え?」反応が遅れて、言葉が出ない。
彼がそれ以上言わないので、ようやく意味を察し、私は必死に否定した。
「見てません見てません! 小さすぎて、見え――」
言い終えた瞬間、霧島雲の顔色がさらに冷えた。
「ち、違っ……そうじゃなくて! ズボンが邪魔で、それに、ちょっと小さ――」
「わ、私……!」
言えば言うほど泥沼だった。頭が真っ白になって、言い訳の形にすらならない。
霧島雲は低い声で言い切った。
「忘れろ。第三者に知られたくない」
私は小刻みに頷くことしかできなかった。
地上に降り、車を走らせて夜色バーへ向かう。
店に着くころには同僚たちはすでに席に揃っていて、上田雄大の前には酒が何本も並んでいた。私を見つけると、彼は朗らかに笑って言う。
「紹介する。うちの盛天グループに入った新入りだ。名前は綾辻絃葉。拍手で歓迎しろ」
ぱちぱち、と拍手が広がる。けれどすぐに、ざわりと空気が変わった。
「綾辻絃葉? その名前、聞き覚えあるな」
「あっ、思い出した。N市の首富、綾辻賢一の一人娘じゃないか?」
「それそれ。結婚式の前夜に男とホテル入って、めちゃくちゃ遊んでたってやつ。式当日に、全員の前で流れたって……」
彼らは私が目の前にいるのに、声を潜める気配すらない。
さっきまで少し好意的だった女性社員の目にも、あからさまな軽蔑が混じった。
上田雄大はわざとらしく咳払いをする。
「おいおい、そこまでにしろ。これから同じ職場でやっていく仲だ。痛いところを突くなよ」
「今日は綾辻絃葉の歓迎会だ。この酒も全部、綾辻絃葉がみんなをもてなすために用意してくれた。さあ、拍手して礼を言え」
また拍手が起こる。だが、今度は疑いの声が混じった。
「今、金あるのか?」
「いいだろ、そこ気にしてどうすんだ。本人が何も言ってないじゃん」
上田雄大は顎を上げ、得意げな目で私を見た。
男たちの目の奥にある欲望。女たちの目に浮かぶ侮蔑。
もう耐えられない。私は逃げるように個室を出た。
背後で、上田雄大の豪快な笑い声が弾ける。
ホールで足を止める。胸が上下し、身体が小さく震えた。私は必死に呼吸を整える。
そこへ、嫌な声が影のように追いすがってくる。
「どうした? もう限界か? 俺はてっきり、この五年で現実ってやつを受け入れたと思ってたんだがな」
「まだ自分が昔の姫だとでも思ってるのか? それでこの先、N市でどうやって生きてくつもりだ?」
堪えきれず、怒りが噴き上がった。
「わざとでしょ! 私を入社させて、同僚の前で恥をかかせて、惨めにさせて……復讐したいのね、あのとき――」
「そうだよ!」
上田雄大は私の言葉を遮り、目を爛々とさせた。
「分かるか? 昔は高嶺の花だった女が、世間に汚されていくのを見るほど興奮することはないんだ」
「昔のお前を見てるとさ、想像するしかなかった。こんな美人が、いずれ誰の妻になるのかって。夢の中でも、お前はずっと手の届かないところにいた」
「それがどうだ。世の中ってのは皮肉だな。今のお前はこのザマだ。顔はまだ使えるが……あの頃の気品は、跡形もない」
「そうそう、言い忘れてた。今日の会計はだいたい400万。大した額じゃないよな? 昔のお前なら瞬きひとつで出せた」
「金持ちは面子が命だろ?」
心が、すうっと冷えた。
昔の私なら400万なんて――けれど今の私に、そんな金があるはずがない。
やっと分かった。こいつの本当の狙いは、ここだ。
……でも、私はまだ甘かった。
上田雄大は顔を輝かせて言う。
「まさか、払えないのか? もし金がないなら、頼めばいい。今夜一晩、俺に付き合え。そしたら俺が払ってやる」
「だってお前、結婚式前夜に男とよろしくやったんだろ? しかも聞いた話じゃ、そのとき婚約者は隣の部屋にいたらしいじゃないか。そんなに遊びが好きなら、いっそ――」
