第6章 彼だ!
結局、私は堪えきれなかった。思いきり平手を叩き込む。
「恥知らずの外道!」
上田雄大は私を見て、いやらしく口の端をつり上げた。怒るどころか、むしろ嬉しそうに。
「手、ほんと柔らけぇな。遊び甲斐ありそうだ」
胃の奥がひっくり返るような嫌悪。私は一歩でも遠ざかりたくて、踵を返す。
けれど上田雄大が追いすがるように言った。
「会計から逃げたら、会社中に白い目で見られるぞ。ハブられて終わりだ。選べねぇんだよ。身体売れば、少なくとも会社ではいい暮らしできる」
見たくもない。今の私をこうしたのは、誰だと思ってる。
上田雄大がいなければ――私は、こんなことには。
ふらふらと前へ歩く。心は沈む一方だった。給料がいいのは確か。けれど四百万円なんて、どこから出せばいい?
それに、ここに残ったとして……上田雄大が私を放っておくはずがない。
まだ初日だ。それで、もうこれ。
これから先を想像するのが怖かった。
なのに、上田雄大は影みたいにぴたりと張りついてくる。
「綾辻絃葉。お前のその笑える“こだわり”なんて、現実の前じゃ蟻みてぇに脆いんだよ」
「今ここを出たい? どうやって? 金払わねぇなら『夜色』から出られると思うな。ここは未払いは身体で清算だ。俺がチャンスやってんだろ。俺一人の相手で済むなら、他の連中に回されるよりマシだ」
心の底が、ずるりと落ちていく。嘘じゃない。こいつは本気で言っている。
ようやく分かった。これが、上田雄大の狙いだ。
私を逃げ道のないところまで追い詰めて、嫌でも頷かせる。
どうしたらいいか分からない。ただ今は、上田雄大から離れたい。
「……ほんと、面倒くせぇ女だ」
吐き捨てるように言うと、上田雄大はいきなり私を抱え込んだ。そのまま部屋へ引きずっていく。
必死に暴れ、声を張り上げる。けれど、ほとんど効かない。
扉が開き、押し込まれる。
中が見えた瞬間――男が一人、猛然と突っ込んできた。
ドンッ。
上田雄大の腹へ蹴りが入る。上田雄大は吹き飛び、床に転がった。
男は鼻で笑う。
「失せろ」
上田雄大は何も言い返さず、踵を返して逃げた。
私は息を乱しながら頭を下げた。
「ありがとう、あなた――」
言葉が途切れた。
男の背後、ソファにもう一人いる。
上半身は裸。右腕のあたりに血の滲みと、白い粉――薬か何か。手当ての途中らしい。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
胸元に走る、一本の長い傷痕。
傷痕――。
この傷……。
瞬間、全身の血が逆流した。心臓が胸を突き破りそうになる。
一週間前、見かけた男。ロールスロイスの車内にいた。
間違いない。五年前――私を……。
全部、こいつのせいで始まった。
過去の痛みと、今しがたの屈辱が一気に噴き上がる。私は男へ突進した。
「殺してやる!」
そのとき初めて気づく。男は仮面をつけていた。素顔を隠している。
私が飛びかかろうとした刹那、さっき上田雄大を追い払った男が間に入って腕を掴んだ。
「そいつには手ぇ出しちゃダメだよ」
言い返そうとした私を遮るように、ソファの男が低い、少し掠れた声で言った。
「悪い。彼女とは……昔の知り合いだ。少し外してくれ」
男は肩をすくめ、出ていく。最後に扉を静かに閉めた。
私は、震える息を飲み込んでから口を開いた。
「……あなたなの?」
「そうでしょう? 五年前のあの夜。あなたの胸の傷、覚えてる。忘れるわけない……絶対、あなたよ」
男はゆっくり言葉を選ぶようにして――認めた。
確信した瞬間、理性の糸が切れた。
さっきまで止まれたのは、相手を間違えたくなかったから。もう間違いないなら、容赦なんてできない。
「殺してやる! 全部あなたのせい! 私が今こうなってるのも! 私の人生、全部めちゃくちゃにした!」
男は片手を前に出しただけで、私の攻撃を受け止めた。私は喧嘩なんてしたことがない。殴り方も分からない。ただ両手でぐちゃぐちゃと掴みかかるだけ。
男は落ち着き払って言う。
「全部を俺のせいにしたいだけだろ。そうすれば、心が少し楽になる」
「五年前、あんたの様子は明らかにおかしかった。たぶん薬を盛られてた。俺は偶然、その部屋に入り込んだだけだ」
「言い換えれば、俺がいなくても別の誰かがいた。結果は……決まってた」
「もちろん、俺にも非はある。だが、全部を押しつけるのは違う」
耳を塞ぎたくなるのに、言葉自体は筋が通っている。五年も経てば、私の怒りは当時みたいに剥き出しではいられない。
けれど、引っかかりが残った。
「……違う。あなたが“予定”じゃないなら、予定されてた人は?」
白井琥珀が用意した相手が別にいたなら――その男はどこへ消えた?
男は首を振った。
「分からない。俺が咄嗟に扉を内側から鍵をかけたせいで入れなかったのかもしれないし、別の理由かもしれない。そこまでは俺も知らない」
「当時は悪かった。できる限り、償う」
私は鼻で笑った。
「ホストが何をどう償うっていうの……いや、でもホストって稼ぐんだっけ」
男の視線が細くなる。
「どうして俺がホストだと分かった」
私は白い目で見上げた。
「真冬に上半身裸で、仮面なんてつけて、服も派手。男女どっちにもウケるタイプって顔に書いてある。さっきの人、あなたのお客さんでしょ?」
「それに、こんな場所の人じゃなきゃ、そんな傷だらけにならない。肩は何? 縄張り争いで刺されたの?」
言い募る私に、男の空気がじわじわ冷えていくのが分かった。でも止まらない。
「あなた、どんな顔なの。見せて。五年前私を抱いたくせに、私はあなたの顔も知らない」
そこだけは、ずっと喉に刺さったままだった。
男は露骨に戸惑う。
「……あんた、ずいぶん俗っぽくなったな」
言いたいことは分かる。昔の私は、きっとこんな言葉を吐かなかった。
けれど、もういい。
恥なら五年前に全部捨てた。上田雄大にあんな屈辱をぶつけられても、会社に残って稼ごうとした私だ。今さら何を取り繕う。
言い返そうとした、そのとき。
着信音が鳴った。私は苛立ちを押し殺して通話に出る。
『綾辻絃葉。みんな帰るぞ。お前の歓迎会だろ? 主役がいないとか、失礼だって分かってんのか?』
『今すぐ戻って会計しろ。じゃないと、N市で生きていけねぇようにしてやる』
頭がおかしくなりそうだった。この世には、どうしてこんなクズが多いの。
白井琥珀もそう。上田雄大は、それ以上。
「死ね!」
叩きつけるように通話を切った。
胸の奥に溜まったものを吐き出したくて、私はテーブルの酒に手を伸ばす。
ぐいっと仰ぎ、一気に喉へ流し込んだ。
