第7章 責任を取らねばならない
綾辻絃葉・私の視点
支払いのことで頭を抱えながら、ふとソファに座る男が目に入った。――その瞬間、ひらめく。
こいつ、私をあそこまで酷い目に遭わせておいて、なんでそんな涼しい顔で優雅にしてるわけ?
そう思ったら、遠慮なんて消えた。
「意地悪な男。私がこんな目に遭ってるの、半分はあんたのせいなんだから。責任、取ってよ」
「……俺のこと、なんて呼んだ?」
「意地悪な男。なに? 気に入らないなら他にもあるけど。意地悪なホスト、とか? とにかく賠償して。こういう仕事って、稼げるんでしょ?」
今はお金が必要。ここで弱気になったら、取れるものも取れない。
男は口元だけ冷たく吊り上げた。
「いくら欲しい。数字で言え」
ソファに背を預けたまま、余裕の態度。
私はその胸や腕の筋肉に一瞬目を奪われて、慌てて視線を戻し、指を五本立てた。
「五億?」と男が眉を上げる。
「ふん。五億くれるなら、土下座でもなんでもしてあげる」
私は鼻で笑ってから、畳みかけた。
「額は知らないけど、これから毎月の給料、三分の二は私に渡して。私を抱いた慰謝料ってことで」
子どもまで産んだんだ。少しくらい払わせたって罰は当たらない。
本当は半分って言うつもりだった。でも値切られたら終わりだ。最初から強めに吹っかけておく。
「一回寝ただけで、一生たかる気か? もしかして、俺と結婚したいの?」
頬が熱くなる。そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
でも、すぐに冷めた。男女どっちもいけそうな男だし、私生活だって派手に決まってる。変な病気でも持ってたら――私も、子どもも終わる。
「……半年でいい。半年だけ。毎月の給料、半分。これなら文句ないでしょ?」
「金は別に構わない。けどさ、お前、よくそんな堂々と金をせびれるな。それと――興味本位で聞くが、今まで他の男はいなかったのか?」
「私を何だと思ってるの? 子どものころから、男はあんただけ。私は結婚式の夜に渡すつもりだったのに、あんたが先に横入りしたんでしょ。ありがたく思いなさいよ」
言い切った途端、胸の奥がきゅっと沈んだ。
たった一度の事故。その後遺症が、一生ついて回るんだろう。
男の口角が、ふっと上がった。
何が可笑しいのか分からなくて、私は紙とペンを取り出し、勢いで「保証書」を書き上げる。そして突きつけた。
「ここ、ちゃんと読んで。半年間、給料の半分を私に渡すって、明確に書いた。署名して。これで契約成立」
男はぐずぐずしなかった。さらりと名前を書き込む。
――遠野瑛士。
私はその文字を確認して、まだ不安が残って彼の手を掴んだ。指に噛みついて印を取ろうとして――やめる。病気とか、万が一ってことがある。
代わりに果物ナイフで指先をちくりと刺し、滲んだ血を紙に押しつけた。
「……乱暴だな」
私は上機嫌で保証書を畳む。
「今日から私はあんたの債権者。稼いで、ちゃんと返して。サボったらボスに言いつけるからね」
「連絡先、交換しよう。連絡取れないと困る」
遠野瑛士が言い、私は番号を登録して、名前の欄に遠野瑛士と入れた。
それから自分の口座番号も渡して、毎月必ず振り込むよう念を押す。
遠野瑛士は眉を上げた。
「お前、知らないんだな。固定給は高くない。稼ぎの大半は日々の歩合だ。客を上手くもてなせば、チップも入る」
そんな仕組み、言われなきゃ知らない。
私は即座に条件を変えた。
「じゃあ今日から! 毎晩10時までに、その日の稼ぎの半分、振り込んで」
遠野瑛士がまた笑う。
「今日の唯一の客、お前が追い返しただろ。じゃあ体で補償するか?」
「いらない。私、潔癖だから。あんたみたいな――」
口が滑った、と気づいて慌てる。
「……ち、違う! そういう意味じゃなくて、見下してるわけじゃなくて……その……」
そのとき、電話が鳴った。正直、救われた。
でも画面に出た番号を見た瞬間、感謝は消し飛ぶ。
私は通話をつなぎ、相手に噛みついた。
「その仕事、もういらない! 私が頼んだ注文じゃないし! 好きにすれば!? 消えろ!」
叩き切るみたいに通話を終え、私はソファにどさっと座り込んで頭を抱えた。
「どうした」
遠野瑛士が訊く。
「どうしたもこうしたも、全部あんたのせい! 仕事も見つからないし、やっと決まったと思ったら、嫌がらせされて台無し!」
「盛天グループで、誰かにやられたのか」
「言っても分かんないでしょ……はぁ。ねえ、あんた、ここで働いてるならサインできるよね? 伝票」
遠野瑛士は頷いた。
「できる」
「やった! じゃあ301の伝票、あんた名義で切って。お願い」
「いくらだ」
私は目を逸らしながら小声になる。
「……たぶん……400万ちょっと」
「お前、俺を――」
「ホスト様、お願い! あとで私も一緒に返すから! この仕事失ったら、本当にご飯も食べられないの!」
「俺のこと、なんて呼んだ?」
「瑛士くん」
最終的に、遠野瑛士は伝票にサインしてくれた。
――この人、案外悪くないのかもしれない。
立場が逆なら、私はきっとできない。そう思うと、さっきまでの自分の態度が少しだけ刺さった。
遠野瑛士は電話を取り、何か仕事が入ったらしい。邪魔したくなくて私は部屋を出て、301へ戻った。
扉を開けると、みんなの視線が一斉に刺さる。私は笑顔を作って言った。
「お会計、済ませてきたよ。みんな、楽しめた?」
「400万超えだろ。そんな金、あるのか?」と誰かが驚く。
「クレカ、何枚も限度額まで使った。しばらくは食費もきついかも。でも、みんなが楽しかったならいいよ」
そう言うと、何人かの顔に、わずかな良心が浮かんだ。
「謙遜しすぎだろ。綾辻家のお嬢様が、その程度で困るわけない。バッグ一個にも足りないじゃん」
私は聞こえないふりをした。
でも、この仕事は手放せない。だから波風を立てず、同僚たちに「今日は解散で」と声をかけ、順に帰らせた。
全員が出ていったあと、上田雄大が残った。
「意外だな。ほんとに払うとは。でも一回払ったら、次もある。お前、いつまで持つ? 俺と一回寝れば、俺が――」
私は虫でも見るみたいに睨み返す。
「さっきの人を呼んで、もう一回殴ってもらおうか。私、知り合いじゃないけど……あの人、別に構わないと思うよ」
上田雄大は陰気な目で私を一度だけ見て、舌打ちもせずに踵を返した。
