第8章 できるのか?

夜色を出ると、私は外の階段にしゃがみ込み、タクシーを呼ぼうとした。運賃は高いけど、酒を飲んだ以上、運転なんてできない。家までは遠すぎるし、ここは一回ケチらずにいくしかない。

――警察にでも捕まったら、罰金はこんな額じゃ済まない。

ポケットに手を突っ込んで金を探した、その瞬間。

……ない。

身につけていた最後の現金が、消えていた。

私は記憶をたどる。たぶん、上田雄大ともみ合ったときに落としたんだ。

最悪だ、と舌打ちしながら、仕方なく店の周辺へ引き返して探した。

三十分。

結果は、ゼロ。

途方に暮れた。ここから借りているアパートまでは二十キロ以上。車なら三十分、歩けば急いでも三時間はかかる。

しかも、冬。

追い詰められて、私は遠野瑛士に電話をかけた。今、助けてくれそうなのは――彼しかいない。

――

霧島雲視点

さっきまで綾辻絃葉が座っていた場所を見つめ、しばらく意識が抜けた。

……彼女はまだ知らない。俺が霧島雲であり、盛天グループの実権を握る人間だということを。

それにしても、俺をホスト扱いか。面白い。

そんなことを考えていると、すでに帰ったはずの滝川天裕がふらりと戻ってきた。

「なに考えてんの? まさか、さっきの子に惚れた?」

「違う」首を振る。「天裕、あの組織について、何か掴んだか?」

「相当うまく隠してるけどな。それでも少しは尻尾を見つけた。白井家が絡んでるっぽい」

「白井家……?」

「そう。白井家。結構有名だろ。五年前、黒鳴蓮夜と綾辻絃葉の結婚が大騒ぎになったじゃん。で、その後すぐ黒鳴蓮夜が白井家の白井琥珀と再婚した」

滝川天裕は思い出したように言った。

「そういや雲兄、会社から消えたチップは見つかった?」

「いや。内通者がいる。今、何人か目星はつけてるが……まだ洗ってる最中だ」

「お前もなぁ。前に一人でふらふら出歩くからだろ。殺し屋にやられかけてたじゃん」

――綾辻絃葉の居場所を掴んで、我慢できずに会いに行った、なんて言えるわけがない。

これは、俺の胸の奥に沈めておく。誰にも話せない。

滝川天裕は俺が黙ったのを見て、軽く肩をすくめた。

「でもマジ運強いよな。二発も撃たれて生きてるとか」

「運がよかっただけだ。……それより、お前が女を漁るのは勝手だが、俺の番号を勝手に使うな。迷惑なんだが」

「女は俺の命なんだよ。女がいねえと死ぬ」滝川天裕は下卑た笑みを浮かべて手を振った。「じゃーな。明日デートあるし」

立ち去り際、振り返って言う。

「お、携帯鳴ってるぞ?」

ソファの上に置いていたスマホを取ると、着信履歴が並んでいた。綾辻絃葉から――何件も。

思わず口元が緩む。俺は通話を押した。

『なんで今まで出なかったの? まさか、やっぱりやめるとか?』

「稼いでた。必死にな」

向こうの声が、どこか切羽詰まっている。俺は眉を寄せた。

「どうした?」

『ねえ……あなた、早い?』

意味が分からないが、とりあえず返す。

「試してみるか?」

『違う! 早く来てってこと! 私……家に帰れないの。タクシー代、ちょっと貸してくれない?』

情けないほど小さな声に、言葉が詰まった。

「今どこだ。俺が行く」

『ロビー』

電話を切ると、俺は上着を羽織り、必要なものだけまとめて部屋を出た。

ロビーのソファに、綾辻絃葉が座っていた。きょろきょろと不安げに周囲を見回し、何かを探している。

「何を探してる?」

俺の姿を見つけた瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなる。だがすぐに唇を尖らせ、情けない顔になった。

「持ってた唯一のお金、落としちゃったの。この辺りに落ちてるはずなのに、見つからなくて」

俺はしばらく言葉を失った。

「……いや、お前。それだけの金で、よく夜色に来たな」

「だって、あのムカつく上司が歓迎会するとか言って、私に奢れって。行かないとダメだったの」彼女は早口で捲し立てる。「とりあえず貸してよ。タクシーで帰りたい。……違う、もっと貸して。明日また来て車で帰らなきゃだし」

胸の奥が、ちくりと痛んだ。

あの眩しかった彼女が、タクシー代すらなくて困っている。

「車あるんだろ。俺が送る」

「え、でもあなた、酒飲んでたじゃん?」

「俺の酒を飲んだのは、お前だろ」

あの一杯を、彼女は躊躇なく一気にあおった。

――車内。

運転席に座り、シフトノブを見て、俺は固まった。

「……マニュアル?」

「まさか、運転できないの?」

冗談じゃない。男が「できない」なんて言えるか。

俺は黙ったままシフトを握り、ギアを入れようとするが――入らない。何度やっても、がっちり弾かれる。

助手席で、綾辻絃葉が申し訳なさそうに小声で言った。

「えっと……マニュアルは、クラッチ踏まないと……」

「分かってる! 黙れ!」

カッとなって、俺はエンジンをかけた。

すると彼女が、酔いの勢いでくすくす笑う。

「今の言い方、うちの社長そっくり。残念だね、あなたはただのホストなのに」

――やめろ。変なところで勘が鋭い。

だが、顔には仮面がある。露見するはずがない。そう思い直した。

「ねえ聞いて! 私、今日入社初日で、会社の誰もやらない大事件起こしたんだよ! 聞きたい?」

……酔ってるな、これは。

嫌な予感がして顔が引きつった。俺は確か、あの話は口外するなと言ったはずだ。

それなのに、今夜もう誰かに喋る気か。しかも最初の相手が、当事者の俺?

胃のあたりが冷える。それでも、あえて促した。

「言ってみろ」

綾辻絃葉はにやっと笑う。

「うちの社長って、マジで変態なんだよ。トイレに噴水作る人いる? 初めて聞いたでしょ?」

「それだけじゃないよ。トイレ入るとき、ドア閉めないの! でね、たぶん見間違いじゃなければ、黄色のパンツだった」

「顔はあんなに真面目そうなのに、下着だけ派手すぎ」

彼女は左右をきょろきょろ見て、声をひそめた。

「あとね、こっそり教えてあげる。絶対、他の人に言わないでよ」

俺はハンドルを握る手に力が入った。血管が浮く。怒りを押し殺し、低い声で言う。

「言わない。約束する」

「それでね、あそこがちょっと小さくて……たぶん――」

ガンッ!

車が真っすぐ壁に突っ込んだ。衝撃と同時に、エアバッグが炸裂する。

一撃で、綾辻絃葉は完全に酔いが飛んだ顔になった。

「遠野瑛士! この車、今日の午前中に点検と整備したばっかりなんだけど! 何万もかかったの!」

「……こんなんなら、最初から私が運転すればよかった」

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