第9章 奇妙な体験
霧島雲視点
あいつが怒ってる? だから何だ。俺のほうが何倍も腹が立ってる。
今この場で、俺のモノを取り出して顔面に突きつけてやりたい――小さいだの何だの、好き勝手言いやがって。ちゃんと見てから言え。
口外するなって、釘まで刺したのに。あいつ、丸一日も我慢できてないじゃねえか。
そのうえ俺のセンスにまでケチをつけるとか、どの口が――。
「黙れ。いくらだ、弁償してやる。これ以上一言でも抜かしたら、ここから放り投げるぞ」
金の話が出た瞬間、綾辻絃葉の怒りは霧みたいに消えた。にへら、と笑って言う。
「少なくとも数万はするよ、あれ……」
「払う。けど、お前、俺の酒飲んだよな。だから半額だ」
そう告げると、綾辻絃葉は途端にしょんぼりした顔になる。
「ホストくん、いちばんいい人だよね。まさかケチったりしないよね? 私、N市で友だち、ホストくんしかいないんだよ」
俺は眉を上げて見返した。
「……友だち?」
「そう! さっき私、めちゃくちゃ意地悪されてさ、世界中が私に敵意向けてる気がして、超かわいそうって思ってたの。なのにこのタイミングでホストくんが助けてくれて……私、ほんと感動した」
そして、当然みたいな顔で続ける。
「だから、弁償してくれる?」
こいつの面の皮の厚さに、奥歯が軋んだ。殴りたくなる女って、本当にいるんだな。
「お前さ、殴られたことないって言われない?」
「え? なに?」
言い返そうとして、ふと気づく。――俺、どうした?
なんでこんなに感情が荒れてんだ。
昼間、トイレで見られたときだって、ここまでじゃなかった。なのに、数言やり取りしただけで、やけにムカついてる。
……生まれつき相性が悪いんだろ。こいつ、俺の天敵だ。
俺は話を切り上げた。
「タクシー呼ぶ。お前は帰れ。車は明日、こっちで手配して処理する」
すると綾辻絃葉が、遠慮の欠片もなく身を乗り出した。
「ねえホストくん。今日稼いだ分、半分ちょうだい。約束したじゃん、今日からって。もう10時過ぎてるし――」
こめかみに血管が浮いた。
「今日、俺の仕事二本、お前に全部ぶち壊されてる。それでもお前に400万の契約まで取ってやった。今からタクシー代まで払う。……そのうえまだ金よこせって?」
綾辻絃葉は気まずそうに頭をかいた。
「ごめんごめん……えっと……じゃあ、ちょっとだけでも。明日会社行くの、タクシーじゃないと……」
もう話したくない。
俺は財布から札を抜き、顔に向けて放った。
ひらり、と札が頬に当たる。
綾辻絃葉は慌てて掴み取って、満面の笑み。
「ありがとうホストくん」
すぐにタクシーが来た。乗り込む背中を見送り、テールランプが遠ざかっていくのを眺めながら、俺は思わず笑ってしまう。
特に――俺が金を出した瞬間の、あいつのきらきらした目。
あれを見られただけで、今日の出費も悪くないと思えてしまった。
――
綾辻絃葉視点
家に戻ると、三浦都子がソファに座ったまま待っていた。物音に気づいて、ぱっと目を開け、こちらへ駆け寄ってくる。
「帰ってきたの? ご飯は? 残してあるよ」
首を横に振る。
「都子さん、もう食べました。それより、なんでまだ起きてるんですか」
「夜遅いのに帰ってこないし、電話しても出ないし……心配だったの。もう少し戻らなかったら、警察に連絡しようかと思ってた」
胸がじん、と温かくなる。
都子さんを部屋に促して休ませてから、子供たちの部屋を覗いた。みんな無事だと確認して、ようやく洗面を済ませ、自分の部屋へ。
服を脱ぎ捨て、どさり、とベッドに倒れ込む。
今日は出来事が多すぎた。上がったり落ちたり、心が忙しい。
否応なしに思い出すのは、遠野瑛士のこと。
なんだかんだで、あの人は私のラッキースターだ。会ってから、400万の契約が取れて、しかも給料まで半分くれることになって――。
それだけじゃない。今夜の事故だって、弁償までしてくれると言った。
考えれば考えるほど、申し訳なくなる。だってあの車、そもそも中古だし、買ったときだってそこまでの値段じゃなかったのに。
……後で、きちんと返そう。
そう自分に言い聞かせて、ようやく心が落ち着いた。
頭の中がとりとめなく漂って、やがて、ずぶずぶと眠りに沈んでいった。
翌日。
都子さんに子供たちの登校を頼んだ。タクシーを呼んで、私は先に料金を払ってから、今度は自分の分のタクシーで会社へ向かう。
出社するなり、上田雄大に呼び出された。連れていかれたのはトイレで、彼は便器を指差す。
「これがお前の掃除か?」
便器にこびりついた汚物を見て、反射的に言い返した。
「わざとやった人がいるんです! 昨日、退勤前にちゃんと綺麗にしました!」
上田雄大は鼻で笑った。
「俺は自分の目を信じる。この月はまだ15日残ってる。もう一回でも見つけたら、今月の給料はゼロだ。さっさと綺麗にしろ」
吐き気がこみ上げる。
ここ、高級企業だ。普段のトイレ掃除なんて、ゴミを捨てて床をさっと拭く程度で済む。こんな状態になるほうがおかしい。どう考えても、上田雄大の嫌がらせだ。
誰か……誰か助けて。
こんなときに助けてくれたら、私は一生恩に着るのに。
そう思った矢先、上田雄大が追い立てる。
「3分やる。できなきゃお前、クビだ」
言い放つと、彼は腕を組んで黙り込んだ。
時間が一秒ずつ削られていく。
稼ぐために頭を下げるか、尊厳を守って捨てるか――心が行ったり来たりする。拳を握りしめ、歯を食いしばった。
……折れるしかない。そう覚悟しかけた、そのとき。
トイレに入ってきた男がいた。見覚えがある。霧島雲の傍にいた、あの護衛。昨日、社長専用のエレベーターに乗っていたのも、確かこの人だ。
名前は知らない。
男は上田雄大に言った。
「霧島さんのトイレを担当している者が体調不良で休みだ。代わりの人員は手配したか」
上田雄大が即答する。
「もう手配済みです。木村にやらせます」
「木村を回せ。管理担当だろ」
「そ、それは……」
護衛の男が声を落とす。
「上田さん、何か意見があるのか」
「いえいえ、ありません」
「ならいい。今すぐ上の階が掃除だ。ついて来い」
そう言って、男は踵を返した。
やった。
心の中で跳び上がる。私は上田雄大を横目で見た。ざまあみろ、と顔に書いてあるはずだ。
――私にやらせる? 夢でも見てなよ。
状況さえ許せば、今すぐ高笑いしたかった。
護衛の後ろについて出ようとした、そのとき。護衛がふいに立ち止まり、便器を指差して眉をひそめた。
「……あれは何だ」
上田雄大が慌てて言い訳する。
「こいつです、新人が掃除をサボって。今ちょうど片づけさせようとしてたところで――」
その瞬間、胸がひゅっと縮む。
まさか、私にやれって言う流れにならないよね……?
嫌な予感は、当たる。
護衛は冷たく言った。
「こんな雑な仕事をするのか」
上田雄大は大げさに頷く。
「そうなんです。霧島さんのところを任せたら、ちゃんとできるか……。だから、ここを担当させたほうが――」
護衛が鼻を鳴らした。
「人選の確認もできないのか。……お前が掃除しろ。今すぐ綺麗にしろ」
「……え?」
上田雄大の顔色が、さっと青くなった。
