第1章

別荘の豪奢なベッドの上。榎本日織は千堂誠也の腰に跨がっていた。

男の両手は縄で縛られ、薬のせいで満足に抵抗もできない。その隙を逃さず、日織は彼の服を一気に引き剥がす。

露わになった逞しい胸板。張りのある腹筋が、灯りの下でつややかに浮かび上がった。

日織は思わず指先で撫で、ぽつりと漏らす。

「……すごい。手触り、いい」

目隠しをされた誠也が、冷えきった声を歯の隙間から絞り出した。

「榎本日織……死にたいのか。今すぐほどけ」

日織は唇の端を吊り上げ、ゆっくりと言い返す。

「夫婦でしょ。こういうの、普通じゃない?」

誠也はさらに強く身をよじるが、力が入らない。

「今日、俺に触れてみろ……生き地獄ってものを教えてやる」

一語一語に殺気が混じっていた。日織は反射的に首をすくめる。

だが、目隠しの下に隠れた苛烈な眼差しを想像した瞬間――露わになっている高い鼻梁と形のいい唇が、妙に腹立たしいほど完璧に見えた。

そして胸の奥に、三年間の冷遇と屈辱が噴き上がる。

――逃げるの? また?

日織は迷いをねじ伏せ、勢いよく誠也のズボンを引き下ろした。

「……お前っ!」

誠也が言葉を失う。

従順で、木偶みたいだった日織が、薬まで盛って縛り上げるなど――想像すらしていなかった。

さらに何か言おうとした、その瞬間。

極限の柔らかさが、彼を包み込んだ。

誠也の表情が固まる。

日織の整った顔は苦悶で歪み、眉間に深い皺が寄った。

――こんなに……痛いなんて、聞いてない。

今日のために、彼女は「勉強」と称して映像を嫌というほど見た。けれど、現実の痛みはまるで別物だった。

裂けるような痛みに耐え、ほんの少し動いただけで――

「……んっ」

小さく声が漏れた、その刹那。

誠也が手首の縄を――いつの間にか引きちぎり、日織を反転させて押し倒した。

墨を流したような瞳に燃えるのは、欲望と侵略。

彼は日織の手首を押さえ込み、低く告げる。

「……望みどおりにしてやる」

嵐が来た。

日織は痛みに喘ぎ、必死に身をよじりながら涙を滲ませ、堪えきれず誠也の肩に噛みついた。

その瞬間の彼は、海を裂いて進む船のようだった。

彼女の氷海を、容赦なく砕き散らしていく。

日織の目尻は赤く染まり、壊れそうで、それでも極限まで咲く花のように艶めいて見える。

誠也は最後、腰を屈めて日織の目尻の涙を舌先で拭い、雷鳴のようだった情事はいつしか春の水のように柔らかく変わった。

すべてが終わる頃には、誠也は深い眠りに落ちていた。

日織は身体中に散ったキスマークを見下ろし、疲労で重い身体を引きずりながら、署名済みの離婚協議書を置く。

そして迷いなく、この街を出た。

海外行きの機内。窓の外に広がる夜景を見つめながら、胸の奥が苦く波打つ。

日織と誠也は幼い頃から決まっていた縁だった。祖母同士も親しく、長い付き合いだと聞かされていた。

だが榎本家は数年前、卑劣な罠に嵌められ、一夜にして頂点から谷底へ落ちた。

祖父母は鬱の果てに亡くなり、父は追い詰められて自死。母は行方知れず。

天国から地獄へ――たった一晩。

最も苦しかった時期には、学費すら払えなかった。

救ったのは、誠也の祖母だった。

身分を整え、学業が終わるまで援助してくれた。そして最期にこう言い残した。

――誠也、必ず日織を娶りなさい。あの子を大事にして。

恩に報いるため。

そして誠也への恋心もあって、日織は学業を捨て、専業主婦になる道を選んだ。

期待してくれていた恩師は、ひどく落胆した。

学校を去る日に言われた言葉が、今も胸に刺さっている。

――男に希望を全部預けたら、必ず失望する。

若かった彼女は、愛があれば何でも勝てると信じていた。

真心を丸ごと差し出せば、氷山のような男もいつか溶ける、と。

現実は残酷だった。

その言葉はそのまま現実になり、三年の冷遇と無視で、日織はとっくに傷だらけになっていた。

決定打は先週のオークション。

千堂夫人であるはずの彼女に、誠也と並んで出席する資格はなかった。

家で芸能ニュースを眺めるしかなく、フラッシュの中で誠也と川島羽美が並び立ち、「天が作ったお似合いの二人」と褒めそやされるのを聞くしかなかった。

さらに誠也は、何千万という宝飾品を落札し、羽美に贈った。

そのすべてが、日織を笑い話にした。

――打った手は引っ込めない。賭けた以上、負けも受け入れる。

離婚協議書は、この結婚に残した最後の体面だった。

誠也が目を覚ましたのは夕方。割れるように痛む頭を押さえ、日織を問い詰めに行こうとして――テーブルの離婚協議書を見つけ、顔から血の気が引いた。

そして時は流れ、六年後。

今日はRNS賞の授賞式。国際的に医学レベルを認定する最高峰の賞だ。

壇上の司会が興奮気味に告げる。

「本日はご来場ありがとうございます。それでは、本日の受賞者――榎本日織さんをお迎えしましょう!」

照明が一斉に切り替わり、スポットライトが日織を射抜く。

背筋はまっすぐ。精緻な顔立ちはまるで神の偏愛を受けた作品。流金のドレスを纏い、静かに壇へ上がった。

穏やかな老教授が微笑み、彼女の胸に勲章を留め、トロフィーを手渡す。

「日織、よく戻ってきた。君が追うべきはキャリアの頂点だ。男の後ろに付いて、無料の家政婦になることじゃない」

日織はトロフィーを両手で抱き、目を潤ませた。

六年。ようやく、努力で自分を証明できた。

「先生……ずっと見捨てないでいてくれて、ありがとうございます。私、これからも結果を出し続けます。絶対に、ここで止まりません」

「よし。期待している」

授賞式の後、日織は教授と研究所へ戻った。

一階で書類を片付けてから二階へ上がろうとした、その時――教授の絶叫が響いた。

「優斗! 涼太! 研究所を解体する気か!」

日織の心臓が跳ねた。

彼女は階段を駆け上がり、扉を開け――その光景に血圧が上がる。

優斗と涼太が、子ども用のスーツ姿で床に座り、周囲には機器のパーツが散乱していた。

研究所で最も高価な装置。値段はほぼ九桁。

「優斗、涼太! 何してるの!」

日織が飛び込むと、優斗は頬に黒い汚れをつけたまま部品を握りしめ、真顔で言った。

「ママ、僕たち……勝負してる」

「勝負?」

涼太が続ける。

「うん。どっちが早く組み上げられるか!」

言いながら、手慣れた動きで部品を嵌めていく。

優斗と涼太――彼女が海外で産んだ子どもたちだ。

まさか、あの一夜で妊娠し、三つ子だったなんて。

ただ一人、末っ子の娘だけは未熟で、早くに逝ってしまった。

二人は幼い頃から機械の組み立てが異常に好きで、家の家具はほとんど一度解体されている。

それが研究所にまで及ぶとは。

日織は内心で唱える。

――実子。実子。実子。

「今すぐ一緒に戻すよ。これからは私の許可なしに研究所に入っちゃダメ!」

優斗がしゅんとした顔で見上げる。

「ママ……」

日織はきっぱり言い切った。

「甘えてもダメ。これは交渉なし!」

「……はーい」

涼太も不満そうに唇を尖らせる。

三人で必死に組み上げ、装置はなんとか復旧した。

日織がようやく息をついた、その時――振り向くと、教授が険しい顔で立っていた。

「日織。研究所が最近投資した新規プロジェクトはJ市だ。今後の研究方針を左右する。君が最適任だ。帰国してフォローしてくれ」

日織の顔色がすっと白くなる。

耳に残ったのは、ただ二文字。

――J市。

千堂誠也も、そこにいる。

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