第2章
過去の記憶と積もりに積もった悔しさが、J市という二文字とともにこじ開けられる。まるでパンドラの箱だ。
――忘れたことなんて、一度もない。
榎本日織は瞳を揺らし、先生を見上げた。葛藤の色が、一瞬だけ滲む。
「……ほかの方ではだめですか」
先生は厳しい面持ちで言い切った。
「研究所の未来がかかっている。私が信じられるのは君だけだ」
優斗と涼太はすでに顎を上げ、耳をぴんと立てて聞いていた。
兄弟は目を合わせ、抑えきれない喜色を交わす。
J市。
――クズなお父さんがいる場所だ。
日織が過去を隠そうとしても、この二人は賢すぎる。
以前テレビで千堂誠也のビジネス帝国が取り上げられた時点で、ほとんど察してしまっている。
なにより――自分たちの顔が、千堂誠也に似すぎている。コピーみたいに。
日織は拳を握り、なお食い下がろうとする。
だが先生が深く息を吐いた。
「今回は、帰国して重点的に研究してほしい分野がある。君が今取り組んでいる癌治療薬に大きく役立つ。突破口になるかもしれない」
日織は唇を引き結ぶ。
そこへ涼太が左脚に抱きつき、葡萄みたいな大きな目で見上げた。
「ママ、僕たちもママの故郷、見てみたい。みんなで帰ろ?」
優斗も右脚に抱きつき、素直に言う。
「ママ、安心して。絶対に迷惑かけない」
日織の表情が揺れた。
この二人の甘えに、彼女はとことん弱い。
もう一度、先生の厳しい顔を見て――結局、日織が折れた。諦めと愛しさが滲む。
「……分かった。でも今日の約束、絶対守ること。絶対に、ママを困らせないで」
優斗の目がぱっと細まり、三日月みたいに笑う。
「うん! ママ、僕たちいい子にする!」
日織はなんとか笑ってみせたが、胸の奥で小さく息を吐いた。
J市……。
千堂誠也、また会うことになるの?
昼、日織は二人を連れ、簡単に荷物をまとめてJ市行きの便に乗った。
機内では子どもたちが窓に張りつき、終始そわそわしている。
到着は午後。
空港の床を踏んだ瞬間、懐かしさと重さがいっぺんに押し寄せ、日織の胸がざわついた。
片手でスーツケースを引きながら、低い声で言い聞かせる。
「空港は人が多いから、絶対ママのそば。離れたらだめだよ」
涼太がきょろきょろと辺りを見回しつつ、少し先の騒ぎを指差した。
「ママ、あの人たち、なにしてるの?」
日織が反射的に視線を向け――笑みが凍りついた。
人垣の中心にいる男。
千堂誠也。
六年。以前よりさらに覇気が増し、冷ややかな眉目は相変わらず端正だ。鋭さは隠れ、刃が鞘の中で静かに光っているような雰囲気になっていた。
黒いトレンチコート姿の彼を、記者たちが取り囲み、フラッシュが雨のように降る。
その隣には、淡いピンクのドレスの女。
川島羽美。
柔らかな笑みで寄り添う二人は、絵になるほど似合って見えた。
記者が矢継ぎ早に問う。
「千堂社長! 川島さんとのご結婚が近いと噂ですが、式はいつ頃に?」
羽美が照れたように誠也の腕へ手を伸ばす。だが彼はさりげなく避けた。
一瞬の気まずさを笑顔で飲み込み、彼女は礼儀正しく答える。
「皆さん、焦らないでください。私たち、まだ若いですし、今は仕事が第一です。でも結婚式の日取りが決まったら、必ず事前にお知らせしますね」
誠也は終始、感情の読めない冷淡な顔。
受け答えしているのは羽美だけだった。
日織は少し離れた場所で、すべてを見て、聞いてしまう。
胸に酸が広がるような痛みが、じわじわと滲んだ。
――ついに、結婚するの?
海外にいても、千堂誠也のニュースは時折入ってきた。
どのパーティでも、隣にいるのは決まって川島羽美。
「お似合いの二人」と持ち上げられ、世間は盛大な式を待ち望んでいる。
自分は三年間、千堂の妻だったのに。
一度も公の場で並んだ写真すらない。
日織は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。
ゆっくり息を吐き、必死に自分を保った。
――もう手放したはずなのに。どうして、まだ悔しいんだろう。
ふと見ると、二人の息子が瞬きもせず誠也を凝視している。
日織の背筋が冷たくなった。
「優斗、涼太、行くよ!」
返事を待たず、腕を引いて歩き出す。
さっきの会話を、どこまで聞いたのか。
父親が別の女と結婚する――幼い心に、どれほど重いか想像するだけで苦しくなる。
優斗も涼太も、何度も振り返った。
千堂誠也の顔を、しっかりと記憶に刻むように。
その頃、取材に絡まれ続けた誠也は、苛立ちを目の奥に滲ませていた。
ふと視線を流した先に――急ぎ足で去る女の背中が見えた。
瞳孔がきゅっと縮む。
あの背中、あの歩き方……榎本日織に似ている。
意識より先に身体が動いた。
誠也は人垣を割って追いかける。
だが空港は広すぎた。
外へ出た時には、どこにも姿はない。
騒がしい人波の中で、期待を混ぜた眼差しが、瞬時に氷のように冷えた。
誠也の口元に、自嘲が滲む。
――何を期待してる。榎本日織が戻るわけがない。
――あの女は、自分の子どもさえ捨てていったんだ。
