第3章
榎本日織は二人の子どもの手を引き、足早に空港を抜け出した。
出口には友人の四葉志希が早くから待っている。日織の姿を見つけるや、すぐに手を振った。
「日織」
「志希!」
日織の目尻がふわりとほどける。
子どもたちは日織より先に志希へ突進し、ぎゅっと抱きついて甘えた。
「志希おばちゃん、ぼくたちのこと、恋しかった?」
志希は身をかがめ、二人の頬にちゅっと強めに二回キスする。
「もちろん。ほら、君たちが好きな飛行機の模型も用意してあるよ」
「やった!」
涼太が目を輝かせる。
「ずっと欲しかったやつ? ママ、前から買ってくれなかったやつ!」
正確には、空母の模型だ。細かい部品が山ほどある。
日織は分かっている。二人の手に渡れば、まず確実に一度バラバラにされる。誤飲の危険もあって、ずっと首を縦に振れなかったのだ。
「うん、それ。二人に一つずつね」
優斗が弾んだ声で言う。
「やっぱりおばちゃんが一番!」
日織は苦笑して志希を見た。
「志希、甘やかしすぎ。これじゃ過保護になるよ」
「大丈夫。分別はあるって信じてる」
志希はけろりと言い、車へ促す。
「さ、帰ろう」
「うん」
日織はスーツケースをトランクに積み、二人を乗せた。
最後まで一度も振り返らない。出口付近を落ち着きなく探し回っていた千堂誠也の存在に、気づきもしなかった。
川島羽美が笑顔を貼りつけたまま駆け寄り、誠也の手を取ろうとする。
「誠也、誰か見えたの? さっきまで取材中だったのに……」
誠也は迷いなく手を避け、冷えた目で吐き捨てた。
「川島羽美。契約を忘れるな。次また、わざと同じ便に乗って記者まで連れてきて結婚を迫るような真似をしたら……容赦しない」
普段から動線は徹底して隠している。突然漏れて、あれだけの媒体が待ち伏せしていたなど、不自然すぎる。
羽美は下唇を噛み、悔しそうに訴えた。
「誠也、誤解よ……私じゃない。あの人たちを呼んでない」
涙を滲ませた顔は、同情を誘う作りだ。だが誠也の瞳は氷のまま。
「自分の胸に聞け。そういう小細工が一番嫌いだ」
「本当に違うの。誠也、そんなふうに決めつけないで……」
誠也の目には嫌悪が薄く張りついている。彼は背を向け、去ろうとした。羽美は追いすがり、涙が通じないと悟ると、素早く拭って媚びた笑みに切り替える。
「ねえ誠也、今夜時間ある? 新しくできたレストランが――」
その時、誠也のスマホがけたたましく鳴った。
通話を取った瞬間、執事の錯乱した声が飛び込んでくる。
『大変です、千堂社長! お嬢さまが……葉月お嬢さまがいなくなりました!』
誠也の瞳孔がきゅっと縮む。目の奥を戾気が走った。
「……何だと? 大人が何人いて、子ども一人見張れない?」
『裏庭からお一人で出られて……今、総出で捜しております』
誠也は羽美を一瞥し、低く命じる。
「全員出せ。二時間以内に見つからなければ……」
「かしこまりました」
電話を切ると、即座に助理へ。
「今日の会議は全部キャンセルだ。人を出して葉月を捜せ」
『承知しました、千堂社長』
続けざまの連絡のあと、誠也は別荘の監視映像を開いた。
画面には、ワンピース姿の小さな影。裏庭の薔薇の間をすり抜け、外へ走っていくのがはっきり映っている。
誠也は拳を握りしめた。骨がきしむ。
――葉月。あんな小さな子が、どこへ行く。
何があっても見つける。必ず。
羽美が慌てて寄り添う。
「誠也、落ち着いて。私も一緒に捜すわ」
誠也は答えない。大股で外へ出た。速まる歩幅が、内側の焦りを隠しきれていなかった。
その頃――。
四葉志希の車は帰路についていた。助手席の日織、後部座席の涼太と優斗は笑い合い、車内は穏やかな空気に満ちている。
だが、突然。
ききっ、と急ブレーキ。
日織が反射的に身を引き、二人も声を上げた。
「おばさん、どうしたの!」
「何かあった!?」
志希は青い顔で息を整える。
「道路に……子どもがいる」
ここは安陽市でも指折りの繁華街。信号は青で、車は途切れない。今のブレーキが少しでも遅ければ――小さな女の子は確実に撥ねられていた。
日織は迷わずドアを開けて飛び出した。横断しようとしている女の子へ向かって駆ける。
紫のドレス。人形みたいに整った顔。なのに瞳は虚ろで、世界が見えていない。
ぷっ、ぷーーっ、とクラクションが耳を裂くほど鳴り続けても、女の子は聞こえていないみたいに歩き続ける。
「危ない!」
白い車が突っ込んでくる。
ぶつかる――そう思った瞬間、日織は身を投げた。女の子を抱きしめて引き寄せる。
ききいいいっ。
ブレーキの悲鳴。
日織は身体を盾にし、女の子を抱えたまま地面を転がった。ごろごろと何回も。ようやく止まった時、足首に裂けるような痛みが走る。
それでも日織は歯を食いしばり、女の子を確認した。
「怪我してない? 大丈夫?」
顔を上げ、周囲を見回す。
「どうして一人で渡ったの? パパとママは? どこにいるの?」
何度問いかけても、女の子は反応しない。
魂を抜かれた人形みたいに。日織が手を取っても、表情ひとつ動かなかった。
日織の胸がどくんと跳ねる。
――この子……自閉スペクトラムかもしれない。
そこへ志希が涼太と優斗を連れて駆け寄ってくる。日織の膝の擦り傷を見て、志希が息を呑んだ。
「日織、怪我してる!」
日織は膝に目を落とし、痛みを飲み込む。
「平気。まず安全な場所に移そう。ここ、危なすぎる」
優斗が真剣な顔で言った。
「ママ、その傷はちゃんと処置しないと悪化するよ!」
その時だった。
女の子の瞳に、ふっと光が差したように見えた。
彼女はゆっくり顔を上げ――日織を、まっすぐ見つめた。
