第4章
小さな女の子は、榎本日織をじっと見つめていた。瞬きひとつせず、まっすぐに。
小さな手は彼女の裾をぎゅっと掴み、離そうとしない。まるで、置いていかれるのが怖いみたいに。
――この子、私のことが好きなんだ。
榎本日織は葉月を見返しながら、理由が分からず首を傾げた。
ただ、その熱のこもった視線を受け止めた途端、胸の奥がちくりと疼いた。心臓がぎゅっと縮むような、言いようのない痛み。
その感情を押し込み、日織はしゃがみ込んで葉月を抱き上げた。
少し迷ってから、彼女を車の中へ座らせる。
「志希、病院に行こう」
子どもは見た目が平気でも、何があるか分からない。ちゃんと診てもらったほうがいい。
葉月は一言も発しない。けれど腕は必死に日織の首へ回され、小さな頬が日織の頬へぴたりと寄った。
日織の瞳に、ふっと笑みが走る。
背中をとん、とん、と優しく叩き、落ち着かせるように宥めた。
「いい子。怖くないよ。病院に行こう、ね?」
葉月は答えないまま、少しずつ身体の力だけが抜けていく。
日織はそっと抱き方を緩め、葉月を膝の上に座らせると、柔らかく微笑んだ。
「名前は? パパかママに連絡できる?」
葉月は口を開いた。けれど音にならず、焦れたように涙がぽろぽろ落ちる。
日織は慌てて抱きしめ、落ち着いた声で繰り返す。
「大丈夫。急がなくていいよ。ゆっくりでいい」
葉月はじっと日織を見つめ、長い沈黙の末に、こくんと頷いた。
そしてもう一度、発音を試す。
「……つき……つき……は……葉月……」
声が小さすぎる。長い間しゃべっていなかったみたいに掠れていて、日織にははっきり聞き取れなかった。
――自閉スペクトラム。
医師として、日織の中で大まかな輪郭が形になる。
隣で優斗と涼太が、興味津々に葉月を見ていた。
二人には、説明のつかない親近感があるらしい。
優斗が目線を合わせ、励ますように言う。
「僕は優斗。君は?」
その声に、葉月の視線が初めて日織から離れ、優斗へ移った。
――このお兄ちゃんも、好き。
そんなふうに見えた。
葉月は少しだけ声を大きくし、繰り返す。
「つき……葉月」
日織は身を屈め、聞き逃さないように耳を寄せる。
かすかに、でも確かに聞こえた。
――葉月。
優斗は髪をぽんぽんと撫で、背伸びした口調で言った。
「えらい」
涼太も負けじと手を差し出す。掌には飴玉が一つ。
にこっと甘い笑みを向けた。
「はい。あげる。甘いよ」
葉月は優斗を見て、涼太を見て、恐る恐る飴を受け取った。ぎゅっと握りしめる。
それから照れたように、また日織の胸へ顔を埋めた。
――やわらかい。あったかい。
ママって、きっとこんな感じ。
日織は笑い、葉月の頭を撫でながら、もう一度尋ねる。
「葉月、パパとママは? 勝手に出てきたの、知ってる? 連絡できる?」
しばらくして、葉月のくぐもった声が返ってきた。
「パパ……会社。ママ……いない」
車内が静まり返る。だから、全員に聞こえた。
優斗と涼太は目を合わせ、葉月の手をそっと握った。
葉月も抵抗せず、弱く握り返してくる。
日織と四葉志希の目に、同時に憐れみが宿る。日織はそれ以上、追及しなかった。
優斗と涼太がそばにいるせいか、葉月は少しずつ表情を緩め、ときどき小さな反応も返すようになった。
ほどなく病院に到着する。
日織が受付を済ませ、すぐに診察へ。丁寧に診てもらい、薬を処方され、会計へ行くよう言われた。
日織は頷き、診察券と書類を手にすると、葉月と優斗と涼太を志希に託す。
「志希、ちょっとお願い。会計してくる。すぐ戻る」
志希が頷いた――が、優斗と涼太が「僕たちも行く」と譲らない。
日織は苦笑しつつ二人を連れ、歩き出す。
葉月は喉が渇いたみたいな目で日織を追い、裾をきゅっと掴んだ。
日織は迷ったが、連れて行くのは危ない。柔らかく言い聞かせる。
「葉月。お会計だけ。すぐ戻るから、ここで待っててくれる?」
葉月は長い葛藤の末、ゆっくりと手を離した。
日織は微笑む。
「いい子」
その頃、千堂誠也の部下は早々に葉月の居場所を突き止めていた。
知らせを受けた千堂誠也は真っ先に病院へ駆けつけ、無事な姿を見て息を吐くと、葉月を抱き上げた。
葉月は嫌がってもがく。誠也は苛立ちを押し殺し、耐えるように宥める。
「葉月。大人しくしろ。次に言うことを聞かないなら、閉じ込めるぞ」
その言い方だけで、志希の中に一瞬で嫌悪が湧いた。すぐに前へ出て、強い声で叫ぶ。
「あなたたち、誰よ! 返して!」
千堂誠也は志希の前に立ち、冷え切った目を向けた。娘を失いかけた怒りと焦燥が、まだ消えていない。
「葉月は俺の娘だ。何のつもりだ」
志希は疑いの目で誠也を見て、鼻で笑う。
「あなたがそう言ったらそうなるの? 葉月だって嫌がってるじゃない。人さらいでしょ!」
千堂誠也が乾いた笑いを漏らす。自分が人さらい扱いされるなど、初めてだった。
「俺の娘に手を出した女は初めてだ。どういう手口で連れ去したか知らんが――」
声が低く落ちる。
「葉月に何かあったら、お前を生かしてはおかない」
さらに、氷みたいな目で言い放つ。
「身体に傷ひとつでもあったら……手足の一本くらい、覚悟しろ」
志希は怒りと恐怖で身体が強張り、言葉を失った。
会計を終えた榎本日織が廊下の角を曲がった瞬間、ざわめきと人だかりが目に入った。
「揉めてるらしい」と耳にして、次いで――千堂誠也の声が届き、日織は足を止める。
――娘? 千堂誠也の娘が、いなくなった?
一瞬だけ驚き、すぐに頭から追い払う。
日織は存在感を消し、優斗と涼太を連れて壁際をすり抜け、別の通路へ逃げた。
千堂誠也が抱いているのが葉月だとは、気づきもしないまま。
病室へ戻ると、志希が怒りを爆発させていた。口から出るのは、誠也への悪態ばかり。
「そんなに娘が大事なら、迷子にするなっての!」
「脅してくるとか、何様よ!」
日織はさっきの場面を思い出し、胸の奥で警報が鳴り響く。
――まさか。そんな偶然、ある?
