第5章

榎本日織は、胸の奥まで揺さぶられるほどの衝撃を受けた。

四葉志希もすぐに状況を飲み込み、ひとつの推測にたどり着く。

「日織、まさか……そんな都合よく重なる? あの男、あんたのクズ夫だったりしないよね」

日織は即座に否定しなかった。むしろ当時の細部と、千堂誠也の容姿について問い返す。

志希も腹を立てている場合じゃないと判断し、目にしたままを――順を追って、事細かに語った。

話を聞くほどに、日織の表情は重く沈んでいく。

葉月の顔が、脳裏に浮かぶ。

思い返せば返すほど背筋が冷えた。自分の迂闊さが腹立たしい。葉月の面差しは、千堂誠也に七、八分は似ていたのだ。

どうりで、どこか懐かしいと感じたはずだ。――千堂誠也の子ども。

そして今、葉月がいなくなり、千堂誠也はついさっきその場を去った。

世の中に、ここまで都合のいい偶然はない。

日織は確信した。葉月は千堂誠也の娘だ。ただ、なぜ迷子になったのか――そこだけが分からない。

さっき、危うく千堂誠也と鉢合わせるところだった。そう思うと、心臓がいやに早鐘を打つ。

壁際に沿って、できるだけ目立たないように歩いた。気づかれていない……はず。

確信は持てない。祈るしかなかった。

日織は重く頷く。

「……たぶん間違いない。葉月のパパは、千堂誠也」

志希は口を開きかけ、結局、言葉を探しきれずに黙った。

その代わり、日織がひらりと手を振り、平気なふりをする。

「大丈夫。もう過ぎたことだし。私には涼太と優斗がいる。それで十分」

志希は小さく息を吐き、それ以上は踏み込まなかった。

「ママ、俺たち、手伝おうか?」

優斗が身を乗り出す。

「さっきの男が気に入らないなら、情報抜いて、痛い目見せてやる!」

――否定できない。千堂誠也の遺伝子は、質がいい。

少なくとも涼太と優斗は、異様なほど優秀だった。三歳の頃にはすでにハッキングを覚えていて、調子に乗って、かつてはM国の防火壁にまで挑んだことがある。

もちろん、結果は失敗。しかも逆探知され、位置まで割られた。

ただ運が良かった。隣に住んでいたのが本物の凄腕で、しかもその人物はそのままM国に引き抜かれたのだ。

その一件のあと、日織は二人にきつく言い聞かせた。

「涼太、優斗。もっと高い相手に挑むこと自体は止めない」

「でも、安全が最優先。相手が位置を割ろうとした時、あなたたちは“そこ”にいちゃダメ。遠く――とにかく、手の届かない場所にいなさい」

それ以来、二人は一気に慎重になった。

後には本当にM国側へ侵入し、位置情報を南極に飛ばすところまでやってのけたのだから、笑えない。

日織は視線を落とし、葉月のことを思い出して胸がざわつく。

葉月は……千堂誠也と川島羽美の娘、なのだろうか。

「ダメ」

日織はきっぱり言った。

「何度も言ってる。勝手に技術を使わない。まして人を傷つけるために使わない。分かった?」

千堂グループのネットを落とせば、溜飲は下がるかもしれない。

けれど、だから何だというのだ。互いにそれぞれの暮らしがある。もう関わらないのが一番――それだけだ。

……

その頃。

葉月は千堂誠也の車に乗せられてから、ひと言も発しなかった。

どれほど宥めても、ぷいっとした顔のまま。全身で「怒ってる」と主張している。

誠也が話しかけても、葉月は体ごと背を向ける。

「葉月。なんで勝手に出た」

葉月は前だけを見つめ、聞こえていないふり。

誠也は子どもの機微には疎い。それでも、機嫌を損ねていることくらいは分かった。すぐに頭を下げる。

「……ごめん。パパ、わざと怒鳴ったんじゃない。焦ったんだ。お前がいなくなるのが怖くて」

「許してくれるか」

商場で無敵の千堂誠也が、こんなにも不器用になるのは初めてだった。

葉月がここまで露骨に怒るのも、彼の記憶では初めてだ。

葉月は一瞬だけ誠也を見て、すぐ目を逸らす。許す気配はない。

誠也は額を押さえ、苦し紛れに提案した。

「……一番好きな模型、買ってやる。だから機嫌直せ」

それでも葉月はむすっとしたまま。

別荘に着くまで、葉月は結局ひと言も口をきかなかった。

誠也は焦っていたが、表には出さない。ただ、時折葉月へ向ける視線だけが落ち着かず、内心の狼狽を晒していた。

玄関を上がり、客間に入ったところで、川島羽美が出迎える。

葉月の不機嫌さを見た瞬間、羽美は「今だ」と悟った。

誠也の横に寄り、流れるように葉月を受け取ろうと手を伸ばす。

「姫さま、どうしたの? おばさんね、葉月が大好きなバービーを持ってきたの。一緒に遊ぼ?」

誠也は羽美を見る。普段、葉月の相手をしているのは羽美だ。彼女なら機嫌を直せるかもしれない――そう思いかけた、その時。

葉月が誠也の首にしがみつき、離れなかった。

誠也は眉をひそめ、羽美を見返す。葉月が、ここまで羽美を拒む?

羽美の瞳に一瞬だけ黒いものが過ぎる。だがすぐに笑顔を貼りつけ、もっともらしく取り繕った。

「今日は……パパに甘えたい日なのよね。ほら、まだ不機嫌みたいだし」

誠也は腑に落ちないまま頷くしかない。

「……そうか。俺が抱く」

羽美はなおも葉月の前へ回り、甘い声を作った。

「葉月、ね? お外に行きたい? おばさんが連れてってあげる」

その口調が、逆に葉月を怯えさせた。

葉月は誠也の胸に顔を押しつけ、くぐもった声を漏らす。

「……病院……おばちゃん……」

誠也はすぐ察した。

「病院に連れていった人に会いたいのか? そのおばさんが好きか」

葉月がこくん、と頷く。期待が浮かぶ。

誠也は驚きつつも、娘が初めて「好き」を示した相手を無視できなかった。

「分かった。探してやる」

葉月はようやく笑い、使用人に連れられて食事へ向かった。

誠也はすぐ助理に連絡する。

病院の映像から、女の身元を洗え。

葉月の様子からして、あれは事故だ。葉月が勝手に飛び出し、誰かが助けて病院へ連れていった――誠也の早とちりだったのだろう。

なら礼を言うべきだ。きちんと。

ほどなく映像が届いたが、画質が荒く、顔はまったく判別できない。

それでも誠也は、画面の女の体つきと所作を見て――胸の奥がざわついた。

榎本日織の影が、重なる。

似ている。

いや――似ているだけでは済まないような。

誠也の目が深く沈み、映像の影へ釘付けになった。

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