第7章
彼女は冷たい風に長いこと吹かれ、タクシーを拾うことさえ忘れていた。
そこへ東雲相馬が車を寄せ、窓を下ろす。
「日織、送っていく」
榎本日織が頷きかけた、その瞬間――千堂誠也がふっと闇から現れ、冷えた声を落とした。
「いらない。彼女はまだ帰らない」
「千堂誠也、私のことに口を出さないで」
いきなり割り込まれ、日織の胸に苛立ちが湧く。
どうしてこの男は、いつまでも自分に絡んでくるのか。離婚して川島羽美と再婚すると言い出したのは、ほかでもない彼だったはずなのに。
東雲相馬が車を降り、日織の前へ回り込む。態度は落ち着いたまま、千堂誠也と真っ直ぐ視線を合わせた。
「日織のことは、あなたが決める話じゃありません」
「彼女は独り立ちした人間です。帰るか残るか、選ぶのは日織本人だ」
日織は黙って千堂誠也を見る。
相馬は一歩も引かず、警戒を隠さない。
千堂誠也は、怒りで乾いた笑いを漏らした。二人が揃って自分に刃を向けているのが、癪に障る。
「榎本日織。長い付き合いなのに、見抜けなかった」
「昔は『私が愛してるのは誠也だけ』って、口が擦り切れるほど言ってたよな。どれだけ経った? もう平気で心変わりか」
寒潭みたいな瞳が、日織を縫い止める。底知れない冷たさが滲んでいた。
日織は呆れたように息を吐き、距離を取る声音で返す。
「人は変わるよ」
「それに、私と千堂様はもう何の関係もない。誰を好きになるかは、私の自由」
言い切った途端、千堂誠也の気配がさらに尖ったのが分かった。
日織は視線を落とす。もう関わりたくない。昔の痛みを、これ以上掘り返したくない。
ちょうどその時、一台のタクシーがゆっくり近づいてきた。救いみたいに見える。
日織は迷いなく手を上げて止め、そのまま乗り込む。
目の前の二人の男と、これ以上こじれた関係を作る気はなかった。
タクシーが走り去るのを見送り、東雲相馬の顔から温度が消えた。千堂誠也へ、冷たい声を投げる。
「日織はあなたと話したくありません。今後、彼女の前に現れないでください」
千堂誠也は鼻で笑う。身長は大差ないのに、なぜか見下ろされている気分にさせられる。
「俺と彼女のことに、お前が口を出すな」
「消えるべき人間がいるなら、それはお前だ」
相馬の眉が跳ね、顔色がさらに落ちる。
「自信満々ですね。でも――日織を傷つけるなら、必ず代償を払わせます」
千堂誠也は相馬を上から下まで値踏みするように眺め、嘲る。
「お前が何者だ」
「元妻にケリをつけるだけだ。邪魔するな。身の程を知れ」
相馬の目に一瞬だけ驚きが走った。
――この男が、日織の元夫。
その唇の端に、意味深な笑みが浮かぶ。
「……なるほど。あんたが“目の腐った男”か」
それだけ言い捨てると、相馬は踵を返して車に乗り込み、去っていった。
千堂誠也は相馬の言葉を反芻するほど腹が立ち、道端の小石を苛立ちまぎれに蹴り飛ばした。
そのまま助理へ電話を叩きつけるように繋ぐ。
「榎本日織が帰国してる。男も一緒だ。明日までにそいつの資料を出せ」
……。
一方、榎本日織。
帰宅しても、動悸が収まらない。千堂誠也の顔と、吐き捨てるような言葉ばかりが頭の中で渦を巻く。
ソファで目を閉じた時、肩を揺すられた気がした。
目を開けると、涼太と優斗が心配そうに覗き込んでいる。
「ママ、帰ってきてからずっと上の空だよ。会社で何かあった?」
「誰かにいじめられた?」
日織は首を振り、笑って誤魔化そうとした。だが、どうしても笑顔が貼りつかない。
結局、二人を寝かしつけることにした。
「大丈夫。嫌な人に会って、ちょっと気分が悪いだけ」
「今日は遊べない。早く寝よう、ね?」
涼太と優斗は目を合わせ、素直に頷いて部屋へ戻る。
子どもたちが眠ると、日織はソファに沈み込み、酒を注いで喉へ流し込んだ。
たった数杯で、記憶が逆流してくる。三年前――いや、それよりずっと前から、千堂誠也との日々は心に焼き付いていた。
愛されない痛みは悪夢みたいに、毎日まとわりつく。心臓がきりきりと絞られる。
それでも、子どもたちが寝ている。だから今だけは、崩れてもいい――そう思えた。
寝室では、涼太と優斗が眠れずにいた。
ママの様子がおかしい。「嫌な人」――それが誰を指すのか、二人には分かっている。
涼太が先に、低く囁いた。
「兄ちゃん。ママ、今日……パパに会ったんじゃない?」
優斗は冷笑し、感情の起伏のない声で返す。
「……あの男以外、誰がママをあんな顔にできる」
涼太は小さな拳を握りしめた。
「ママを泣かせた。罰を与えないと」
優斗は何も言わなかったが、否定もしない。
その瞬間、優斗の脳裏に葉月の顔が浮かぶ。
千堂誠也があれほど大事にしているなら、葉月を傷つければ――きっと、あの男は苦しむ。
けれど、その考えはすぐに打ち消した。
悪いのは千堂誠也で、葉月には罪がない。巻き込むべきじゃない。
二人は「どうやってママの仇を取るか」を考えながら、いつの間にか眠りに落ちた。
翌朝。
日織はもう平静な顔をして、二人を食卓へ呼んだ。
「ほら、食べて。ちゃんと食べるのよ」
涼太と優斗もほっとして笑う。
「ママの朝ごはんが一番おいしい」
お世辞だと分かっていても、日織の胸は少しだけ軽くなる。
「おいしいなら、たくさん食べて」
そこへチャイムが鳴った。
涼太がドアを開けると、四葉志希が勢いよく入ってきて、嬉しそうに言う。
「日織! 二人の通園先、手配できたよ。J市国際幼稚園。教育レベルは最上級、いつでも入園できるって」
日織の目がぱっと明るくなる。息子たちを見て微笑んだ。
「よかった! じゃあ、あとで送っていこう。涼太、優斗、どう?」
