第9章

涼太と優斗は顔を見合わせ、そろってため息をついた。横を向きながらも、小指だけは正直に葉月の小指と絡めてしまう。

それからというもの、葉月は文字どおり一歩も離れず、涼太と優斗のそばにぴったり張りついた。

千堂誠也とのいざこざさえなければ、涼太と優斗は葉月のことが好きだった。

とくに今日、いじめられているのを目の当たりにしてからは、二人のほうから誘って遊びに付き合った。三人の空気は驚くほど和やかで、笑い声が絶えない。

あっという間に時間は過ぎ、幼稚園の降園時間。

迎えに来たのは、千堂誠也本人だった。

「葉月、帰るぞ」

手を伸ばして抱き上げようとする。だが葉月は、まるで狙っていたみたいにすっと身をかわした。愛想もなく、返事すらろくにしない。

それどころか、涼太と優斗の背中に隠れるようにしてついて回り、名残惜しさを顔いっぱいに滲ませている。

涼太と優斗は目の前の男が「クズお父さん」だと一瞬でわかった。

ママにしたことを思い出し、二人の顔には露骨な不快感。視線はあからさまに冷たく、嫌悪が隠れていない。

千堂誠也は葉月の視線を追い、涼太と優斗を見た。

どこかで見た気がする。だが思い出せない。

なのに、胸の奥がふっと温かくなる。ビリッ、と静電気みたいな感覚が走り、理由もなく二人に近づきたくなった。

――だというのに。

向けられたのは、子どもとは思えないほどはっきりした拒絶。

千堂誠也は面子が潰れた気がして、視線を逸らした。相手にしないふりをする。

それでも気分は、妙に沈んでいく。

そのとき。

水鉄砲で遊んでいた涼太が、ぱっとひらめいたような顔をした。

わざとらしく手元を狂わせ――

ぷしゅっ。

千堂誠也の顔面に、水がまともに炸裂した。

「……っ」

濡れた前髪が額に張りつき、コートの襟元までびしょびしょ。見るからにみっともない。

涼太はぱちぱちと大きな目を瞬かせ、まるで本気で悪びれていない声で言った。

「ごめんなさい、叔叔。わざとじゃないよ。子ども相手に怒ったりしないよね?」

千堂誠也の怒りが、ぐっとせり上がる。

――だが、その瞬間。

葉月が、くすっと笑った。

それは久しぶりに見た、はっきりした感情だった。

千堂誠也の怒気は、まるで霧みたいに消える。

謝罪もされている。子ども相手に本気でやり返すわけにもいかない。

実際、罰したい気持ちはほとんどなかった。ただ、敵意があまりに露骨で癇に障っただけだ。

葉月が笑っている。それなら、と。

千堂誠也は少しだけその場に留まり、葉月の気が済むまで待つことにした。

――そこへ。

榎本日織が迎えに来た。

その光景を見た瞬間、彼女の心臓がひゅっと吊り上がる。

駆け寄ると、迷いなく二人の前に立って庇った。

「大丈夫? ごめんね、ママ遅くなった。今すぐ帰ろう」

千堂誠也を睨む目が、針みたいに鋭い。

無理もない。

涼太と優斗は、千堂誠也の幼い頃に――あまりにも似すぎていた。

本人が気づかなくても、過去に彼を知る人間が見れば一発だ。

正体が露見すれば、千堂家は子どもを奪いに来る。そんな未来、絶対に許せない。

千堂誠也は事情が分からない。だが、榎本日織の過剰な警戒が癪に障った。

胸の奥が、さらに黒くなる。

――こいつは、俺と娘を捨てて好き勝手に消えた。

なのに今は、別の子どもを必死で守るのか。

葉月が黙り込んだままなのが痛くて、千堂誠也の視線は榎本日織へいっそう険しくなる。

だが子どもがいる。感情は押し殺した。

榎本日織は千堂誠也を徹底的に無視し、門のところまで来てようやく息をつく。

「もうここでいいよ。葉月に、バイバイしようね」

涼太と優斗は大人しく手を振った。

別れ際、千堂誠也がとうとう堪えきれず、怒りをぶつける。

「榎本日織……お前は本当に心がない女だな。これだけの年数、平気で過ごしてきたのか」

榎本日織には意味が分からない。

病気か、と切り捨て、何も答えず車へ乗り込んだ。

走り出した車内で、榎本日織は込み上げるものを押し潰し、前だけを見てハンドルを握る。

涼太と優斗は顔を見合わせ、クズお父さんへの不満をさらに強めた。

――さっきの水鉄砲程度じゃ、全然足りない。次はもっと痛い目に遭わせる。

帰り道、榎本日織は不安を断ち切るみたいに提案した。

「ねえ、幼稚園……転園しようか?」

涼太と優斗は、すぐ葉月の顔を思い浮かべる。

自分たちがいなくなれば、葉月はまた一人になる。いじめも、きっと止まらない。

それに――千堂誠也への仕返しも、まだ終わっていない。

二人は同時に首を振った。

「ママ、僕たちこの幼稚園好き。転園しない」

「葉月のパパが何か言っても気にしないで。ママを傷つけるクズ男なんて、価値ない」

榎本日織は息子たちの意思を尊重した。

小さく頷き、沈んだ声で返す。

「……分かった。あなたたちが楽しいのが一番」

ただ、胸の奥の苛立ちは増していく。

千堂誠也だって、別の女と子どもを作っているくせに。何を今さら、自分を責める権利がある。

――やっぱりクズ。

帰宅後。

榎本日織は機器業者と薬材業者の調整に追われた。

新プロジェクトでは装置も薬材も必要量が桁違いで、しかも研究方向が大きく変わったせいで、従来の供給ルートでは追いつかない。

とくに薬材が問題だった。

研究所のJ市分部が使っていた取引先は、漢方の抽出液がメイン。生薬そのものは別ルートから仕入れているらしく、品質が安定しない。

東雲相馬も以前交渉したが、質が低すぎて研究には使えなかった。

榎本日織はノートPCを開き、資料を洗い直す。

J市なら第一候補は川島グループ――川島羽美の実家だ。

だが、過去のあれこれが脳裏をよぎり、反射的に胃が重くなる。

――関わりたくない。

無理をする気はなかった。

榎本日織は視野をJ市の外へ広げ、別の供給元を当たることにする。城内は川島家の影響が強すぎる。なら、外にこそ掘り出し物があるはずだ。

機器については、自分のルートがある。

それに涼太と優斗がこの分野に異様に強い。幼い頃から才能が飛び抜けていて、すでに海外の医療機器メーカーとも太い繋がりを持っている。

資料を読み込み、候補を絞っていく。

そのとき、スマホが鳴った。

画面も見ず、反射で出る。

「もしもし、榎本日織です。どちらさま――」

返事がない。

通話は繋がったまま、沈黙だけが続く。

不審に思い、スマホを耳から離して画面を見る。

表示されている番号に、目が釘づけになった。

六年経っても忘れない。

脳に焼きついた、その数字。

千堂誠也の番号だ。

――まだ同じ番号なんだ。

榎本日織が黙り込んだのを、向こうも察したのだろう。

千堂誠也が冷笑を漏らす。声は、底冷えするほど陰に濡れていた。

「榎本日織。俺が誰か、分かったか」

胸の奥を、短い虚しさが横切る。すぐに皮肉がそれを塗り潰した。

離婚前、どれだけ電話しても一度も出なかった男が、今さら何の用だ。

榎本日織は淡々と言う。

「千堂誠也。例の言葉、知ってる?」

一語ずつ、切り分けるように。

「元夫は死んだものとして扱うって」

呼吸ひとつ置いて、刃を落とす。

「だから、千堂誠也……あなたは私の中では、もう死人」

ぷつっ。

通話を切った。

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