第2章
「寧音! 起きたのか? シーツを替えようと思ってさ。さっきゴキブリを見たんだ!」
「今、シャワー浴びてる。すぐ出る」
浴室の中で、杉山海斗は倉持寧音が目を覚ました気配に、反射的に白井紗夜を押しのけた。
「絨毯、痛かっただろ。ちょっと待ってろ、すぐシーツ替えるから」
そう言いながら、海斗は倉持寧音をベッド脇の車椅子へ移そうとする。
倉持寧音の視線が、ダイヤ飾りの車椅子へ落ちた。
さっきまで、そこで――。想像しただけで胸の奥がぐらりと気持ち悪くなる。
彼女は慌てて、海斗の手を押さえた。
「隣の客室に抱いて行って。この部屋、ゴキブリが出たなら汚い。嫌」
海斗はその視線に釣られて車椅子を見る。浴室の薄い灯りの下、座面の縁に白い汚れがうっすら残っているのが目に入った。
――気づいたのか?
一瞬、疑いがよぎる。だが、紗夜が言っていた。寝る前に、妊婦でも使える睡眠薬をミルクに混ぜた、と。
その言葉で不安を押し込めた。
「わかった。寧音の言う通りにする」
海斗は倉持寧音を隣室のベッドへ運び、額へそっと口づける。
そして布団を持ち上げ、彼女の横に潜り込もうとした、その瞬間。
隣の部屋から、シャンプーボトルが床に叩きつけられる音がした。
ガタン。
海斗の動きが止まる。
紗夜が呼んでいる。
迷いが、顔に浮かんだ。
倉持寧音は思い出していた。ここ数か月、夜中に眠っていると、家のどこかで重い物が落ちる音が何度もしたことを。
浮気に気づく前、紗夜に尋ねたこともある。返ってくるのはいつも同じ答えだった。
「窓がちゃんと閉まってなくて、風で倒れただけだよ」
信じていた。
紗夜は、介護士として来る前、倉持寧音の小学校から高校までの親友だったからだ。大学四年で連絡は途切れたけれど、再会できた時は素直に嬉しかった。十年以上の付き合いで、彼女の家が苦しかったことも知っている。
小学生の頃、紗夜の家には彼女だけの部屋すらなかった。
親が家の外にテントを張り、そこを「自分の場所」にしてやっと眠れる――そんな暮らしだった。
だからこそ、この数か月、寧音は自分なりに精一杯やってきたつもりだった。
海斗は当初「夜は帰宅させたほうがいい」と言ったが、行き来が大変だろうと客室を用意した。食事も同じものを一緒に。家族同然に扱った。
奨学金の返済が残っていると聞けば、海斗に頼んで年俸分を前払いしてもらった。誕生日にはサプライズまで準備して、贈り物も渡した。
腹を割って向き合った。
それなのに――どうして、私の結婚を壊すの。
「寧音、主寝室のシーツ、まだ替えてないから。あとでまた来る」
ぼんやりしている寧音を置いて、海斗は結局、紗夜のほうへ行った。
布団を掛け直し、足早に出ていく。
出る直前、寧音に物音が届かないようにと、客室のドアに鍵までかけた。
カチャリ。
覚悟していたはずなのに、その音を聞いた瞬間、涙が勝手にこぼれた。
最初は、好きじゃなかった。
けれど恋人になり、プロポーズを受け、夫婦になって――いつの間にか日々の積み重ねで、ちゃんと愛してしまっていた。
事故の時、海斗を庇った瞬間。
彼が助かるなら、自分が死んでもいいとさえ思った。
なのに今、その気持ちが、容赦なく自分の頬を叩き返してくる。
ボイスレコーダーを握り締め、倉持寧音は自分に言い聞かせた。
――もう少しだけ、耐えろ。
証拠を揃えたら、杉山海斗がいちばん幸せな瞬間に、叩き落としてやる。
その夜。
倉持寧音は眠れなかった。
鍵の向こうから漏れてくる、甘ったるい喘ぎ声。閉ざされた扉程度じゃ遮れない。
空が白み始めた頃、ようやく意識が沈んだ。
そして、再び目を開けた時――白井紗夜は介護士の制服に着替えていた。
「寧音、どうして客室で寝てるの? 顔色、よくないよ。ちゃんと眠れなかった?」
何も知らないふりで、心配そうな顔。
そう言いながら、温めたミルクを差し出してくる。
ここ数か月、彼女はずっとこうだった。だから寧音は、異変に気づけなかった。
昨夜も、同じようにミルクを渡された。
倉持寧音は受け取ると、そのまま白井紗夜の顔へぶちまけた。
「寧音!? なにするの!」
ミルクまみれになった紗夜の瞳に、怒りが燃え上がる。だがすぐに我に返ったのか、感情を押し殺し、無理やり笑みを貼り付けた。
「妊娠後期で具合が悪いの? 先生呼ぼうか……」
「どうして? 白井紗夜。私、あんたにあれだけしてきたのに。どうしてこんなことするの?」
一晩の地獄で、限界だった。
もう、耐えたくない。理由が知りたかった。
「……何の話? わからないよ」
紗夜はティッシュを取り、頬や髪のミルクを拭う。拭いている間だけ視線を隠し、目の奥の毒を押し込める。
手を下ろした時には、いつものか弱い仮面に戻っていた。
「昨夜のミルク、私は飲んでない。この一か月、黙ってたのは……あなたの底がどこにあるか、見たかったから」
倉持寧音は理解した。
この女に、底なんて最初からない。
「飲んでない? じゃあ昨夜、全部聞いてたんだ」
紗夜の口元が歪む。
「倉持寧音。自分の旦那が私に溺れてるのを、耳で聞くのってどんな気分? 最高に惨めでしょ」
弱々しさは一瞬で消えた。
紗夜は襟元を引き、びっしり残るキスマークを見せつける。瞳は陰湿な光を帯び、もう何も隠さない。
「あなたは全部持ってるつもりだったんでしょ。でもね、あなたが手にしてたのは全部、偽物だった。私は何もかもあなたに負けてる。でも一つだけ勝ってる」
唇が吊り上がる。
「今の私は、あなたより旦那を満足させられる」
「杉山海斗が私の夫だって、分かっててやってるんだよね。私はあんたに何かした? どうしてこんなことするの」
倉持寧音は、ベッド脇の本を掴んで投げつけた。
答えだけが欲しかった。
紗夜はひらりと身を引き、鼻で笑う。
「何で、って……逆に聞くけど。なんで同じように育ったのに、あなたの衣食住、全部が私よりずっと上なの? 家が金持ちなのはまだいい。でも、家族まであなたを溺愛してる」
吐き捨てるように、言葉が続く。
「私は毎日、腹も満たせず、着る物もなくて、親に殴られて。あなたが助けてくれるたび、私はあなたが憎くなった。助けられなければ惨めな人生でも受け入れられたかもしれない。でもあなたが教えたの」
紗夜の声が震える。
「人は、あなたみたいに生きられるって。だから私は、あなたの全部を奪う。あなたになって、あなたの人生を生きる!」
そして、嘲るように笑った。
「倉持寧音。善人ぶりたいならさ。いつ離婚するの? 脚もダメで、腹の子も女の子。産んだって、いつまで妻でいられると思う? 捨てられる前に、少しでも情が残ってるうちに出ていけば?」
言い切ると、紗夜は懐から紙を取り出した。
「これ、杉山海斗のお母さんに連れられて検査した。私、妊娠したの。杉山家がずっと欲しがってた男の子」
倉持寧音は、その検査結果を見た途端、息が詰まった。
「善意を……あんたは『自慢』だと思ってたんだね」
唇を強く結ぶ。目の奥が、焼けるように痛い。
「いい。賭けよう。私はこのことを杉山海斗に言わない。何も知らないふりをする」
海斗は誓ったはずだった。ずっと大切にする、この先も子どもを授かるのは自分だけだと。
それが、嘘だったのだ。
倉持寧音は、込み上げる酸っぱさを飲み込んで、顔を上げた。
「見てやる。杉山海斗がどれだけあんたを愛してるのか。あんたのために、自分から私に離婚を言い出すのか」
言い終えた瞬間、ドアが開いた。
袖口のカフスを留めながら、杉山海斗が入ってくる。
「……離婚?」
最後までは聞いていない。「離婚」の二文字だけが耳に刺さり、胸の奥がざわついた。
海斗は紗夜を睨み、余計なことを言ったのではないかと警戒する。
「寧音、離婚って何だ。何言ってる? 俺、誓っただろ。俺たちは一生、離婚しない」
そう言うと海斗は、倉持寧音を新しい車椅子へ移し、彼女の前に膝をつく。手を取って、唇を落とした。
深い情。甘い瞳。
そこに映っているのは、まるで倉持寧音だけ。
今すぐ、その手を振り払って頬を叩きたかった。
すぐにでも離婚したかった。けれど、確かな証拠がないまま突きつけても、海斗は認めないだろう。
倉持寧音は黙って検査結果を握り潰し、掌の中へ隠した。
そして、白井紗夜を見る。
「何でもない。紗夜と雑談してただけ。ね?」
紗夜は海斗の前では、従順な仮面を被る。
彼女自身も分かっているのだ。欲望に溺れてどれだけ抱かれようと、海斗が愛しているのは倉持寧音だと。
――でも、子どもがいる。母親の後ろ盾もある。正妻になるのは時間の問題。
そう言い聞かせるように、紗夜は微笑んだ。
「はい、若様。奥様と少しお話していただけです。奥様の脚、まだ力が戻っていませんから。私、下で脚のマッサージをしてきますね。若様は今夜、早くお帰りください。おうちでお待ちしてます」
車椅子を押しながら、紗夜はすれ違いざま、わざと指先で海斗の手の甲を撫でた。
「わかった。今日は残業しない。仕事が終わったら帰る」
海斗はさらりと答え、寧音に向けて言う。
「寧音、今日は子どもと一緒に、いい子にして待ってて」
昨夜、紗夜が口にした「体勢」が脳裏をよぎり、胸の奥が熱くなる。
だが、寧音の前で勝手な真似をする紗夜は不快だった。
海斗は手を引き、警告の視線を投げる。
それから寧音の額に口づけた。
倉持寧音は、その深情を演じる瞳を見つめながら、爪をさらに掌へ食い込ませた。
これが――
「一生離婚しない」と言いながら、目の前で愛人と今夜の約束を交わす夫。
彼は私を、いったい何だと思っているの――。
