第3章
「紗夜……脚が痛いの。急いで」
寧音は車椅子の肘掛けをぎゅっと掴み、エレベーターへ向かって自分で車輪を回した。もう二度と、杉山海斗の顔なんて見たくない。
「寧音、じゃあ俺は先に会社行くな。愛してる」
海斗は寧音の目を見ていなかった。細い背中の線と、なだらかなうなじの曲線ばかりを追っている。出会った頃から彼女はそうだった。ただ横顔を見ただけで、胸の奥がざわついた。
寧音はもう自分の妻だ。さらにA市の案件を取れれば、杉山グループはもう一段上へ行ける。海斗は焦るように家を出た。
海斗が去った途端、白井紗夜の態度はがらりと変わった。
寧音の正面へ回り込む。姿勢だけは恭しく、けれど瞳の奥の野心はもう隠そうともしない。口元には、あからさまな挑発の笑み。
「倉持寧音。本当は、こんなに早く白状するつもりじゃなかったの。あんた、頭は悪いけど……私にはまあ良くしてくれたしね。でも真相を知って、わざわざ私に喧嘩売ってきたなら話は別。もう昔みたいに、上っ面だけの親友ごっこなんてできない」
紗夜はわざとらしく肩をすくめる。
「さっき、見たでしょ? 私が指をちょいってやるだけで、旦那さんのほうが勝手に寄ってくる」
「ねえ、あんたみたいな半端者が、何を偉そうに杉山海斗を独占してんの? あの人、若いし、欲も強いし、体力もある。毎晩、私といろんなことしないと足りないの。……で? あんたはお腹が大きい上に、立つことすらできない。満足させられるの?」
「杉山グループの社長が、立てない奥さんを心の底から嫌がってないとでも思ってる? 賭けてもいい。負けるのはあんただけ」
寧音は、変わり身の速さと厚かましい得意顔の紗夜を見据えた。壁に手をついて立ち上がり、腕を振り上げる。
ぱんっ。
乾いた音が病院前の空気に弾けた。
「これは雇い主への無礼に対する一発よ。前は友達だと思ってたから、多少の暴言も我慢した。でも――これからは違う」
寧音は息を切らしながら、低く言い切る。
「次に私の前で調子に乗ったら、平手だけで済むと思わないで」
「倉持寧音……私を叩いたの?」
紗夜は信じられないという顔で頬を押さえた。朝からミルクをぶちまけられ、今度は平手。歯を食いしばり、怒りで顔を引きつらせたまま踵を返す。
「絶対に許さない……!」
紗夜は荒々しく去っていった。
――だが、終わりではなかった。
一時間後。兄が勧めた病院で脚のリハビリ検査を受けようと、寧音が車から降りた、その瞬間。
病院の入口で、また白井紗夜と鉢合わせた。
しかも隣にいるのは――義母の橋本礼子。
礼子は紗夜の腹に視線を落とし、薄く笑った。
「早く授かっても意味ないわ。大事なのは、ちゃんと産めるかどうかよ」
「紗夜、あなたのお腹は男の子なんでしょう。杉山家は三代続く一人っ子。海斗のおじいさまも男の子が大好きで、ずっと孫を待ってたの。安心してお腹を守りなさい。時期が来たら、あなたたち母子のことはきちんと――こちらで面倒を見るわ」
その言葉を浴びせられた瞬間、寧音の背中が冷えた。
杖をつきながら車を降り、ゆっくり車椅子へ移る。その一連の動作を見ただけで、礼子の腹の底の苛立ちは噴き上がった。
礼子がずかずかと近づいてくる。視線は寧音の脚へ。事故で足が悪くなってからというもの、海斗は寧音を嫌がるどころか、むしろ過保護なほどに守っていた。それが礼子の癇に障って仕方がない。手入れの行き届いた顔が、怒りで歪む。
「倉持寧音……あんた、本当に疫病神ね」
礼子の声は尖り、刺々しい。
「海斗があんたと結婚なんかしなければ、新婚のあの日に事故なんて起きなかった。元からうちの息子には釣り合ってなかったくせに、今じゃ足まで――誰から見ても、可愛げの一つもない」
「外で聞かれるのよ。『お嫁さんの脚はどう?』って。あんたの話題を出すたび、こっちが恥をかく!」
礼子は吐き捨て、続ける。
「紗夜から聞いたわ。あんた、もう二人のこと知ってるんですってね。本当は黙ってやろうと思ってたけど――知ってるなら話が早い」
「子どもが生まれる前に、今すぐ海斗と離婚しなさい!」
海斗がいる時は取り繕っていた礼子が、いない今、堪え切れず毒を垂れ流している。
寧音が言い返そうとした、その瞬間。
紗夜が絶妙な間で礼子の腕をそっと掴んだ。
「礼子さん、そんな言い方……。寧音は海斗さんの、ちゃんとした奥さまです。私は杉山家の男の子を授かれただけで、十分幸せですから」
紗夜はしおらしく首を傾げる。
「私、海斗さんと寧音の結婚を壊したいだなんて思ったことありません。離婚させて、私が代わりに座るなんて――そんなこと、望んでません」
「寧音は体も弱いし……私が代わりに子どもを産んで、学生の頃の恩を返したら、子どもだけ置いて私は身を引きます。あなたたちが家族です。どうか、私のせいで仲違いしないで……」
口では弱く出る。だが寧音へ向ける視線は、隠しもしない優越と見せびらかしだった。
礼子の性格を紗夜は掴んでいる。弱いふりをすればするほど、礼子は紗夜に肩入れし、寧音を憎む。子どもを「置いて去る」と言われれば、礼子が激昂するのも分かっていた。
案の定、礼子は目を吊り上げた。
「置いて去る? ふざけないで! そんな健気なこと言わせて……!」
礼子は寧音へ、さらに汚い言葉を浴びせ続ける。
寧音は礼子を見なかった。まっすぐ紗夜だけを見据える。
(今ここへ来たのは、朝の一発の仕返し――義母を使って私を叩き潰すため)
寧音は冷たく言った。
「本気で思ってるの? 私が杉山海斗と離婚したら、あなたを妻にするって」
「だったら試せばいい。妊娠のこと、杉山海斗に言いなさい。彼が離婚に同意するなら――私は協力してあげる」
言い終えると、寧音は礼子へ顔を向ける。
「お義母さん。あなたは海斗の母親でも……海斗のこと、たぶん分かってない。あの人、死んでも私と離婚しない」
礼子は目を剥いた。
この一年、寧音はいつも丁寧で、波風を立てない嫁だった。それが今、真正面から言い返してきた。
礼子の怒りが爆ぜる。
海斗がいれば手を出せない。だが今はいない。
礼子は一歩踏み込み、寧音の手から杖をひったくり、乱暴に放り投げた。
「何様のつもり? 脅してるの?」
「海斗が本気であんたを愛してるなら、どうして紗夜を孕ませたのよ。結婚して一年? でもね、紗夜と関係持って半年になるのよ!」
その言葉は刃だった。寧音の胸の奥へ、ずぶりと突き刺さる。
半年。
つまり――妊娠が分かった頃。紗夜が家に入り込んできた頃。
この一か月、寧音は調べられずにいた。いつから二人が関係を持ったのか。真実が惨すぎて、受け止められないのが怖かったから。
逃げても、真実は血みどろのまま目の前に現れる。
(半年……そんな、簡単に)
「この半年、月水金は海斗が寧音のところ。火木土は――毎晩、私の部屋」
紗夜がさらりと言い、肩をすくめた。
「そうそう。私が海斗と一緒になれたの、寧音のおかげでもあるんだよ。家に来たばかりの頃、私の泊まる場所がないって心配して、わざわざ客室を用意してくれたもんね」
そして礼子へ向けて、猫を被った声。
「おばさま、寧音は私と海斗の恩人でもあるんです。あんまり責めないであげてください。それにここ、病院の前ですし……誰かに見られたらよくないです」
紗夜は労うように礼子の腕へ手を置く。口調は諫めるふり。目だけが勝ち誇っている。
寧音の喉がひりついた。
「火曜と木曜と土曜……あなたの部屋で寝てた?」
声が、紙みたいに薄い。
思い返す。ここ半年、火木土の朝に目を覚ますと、海斗はベッドにいなかった。問い詰めると彼は笑って言った。
――最近、寧音の世話で太ったから、朝ランで絞ってる。健康でいないと、ずっと抱き上げてやれないだろ。
寧音は信じた。むしろ、その言葉に泣きそうになった日もある。
全部、嘘。
「うん。半年もあったのに、気づかなかったの? 私、火木土になると必ず宅配が届くでしょ。何が届いてたと思う?」
紗夜は口を動かし、音を出さずに形だけで告げた。
――セクシーな下着。
寧音の視界が揺れる。けれど倒れないよう、必死に体を支えた。
そして紗夜を見返し、吐き捨てる。
「体だけで繋いだ関係が、いつまで持つと思う? 杉山海斗は私を裏切った。いつか必ず、あなたも同じように捨てる」
「白井紗夜。見てなさい。彼があなたのために私と離婚するなら――それでいい。私はその時、笑ってやる」
寧音は車椅子の車輪へ手をかけ、去ろうとした。
紗夜は、海斗が自分のために離婚などしないことを分かっている。礼子を焚きつけて寧音に手を出させようとした、その瞬間――視界の端に、一台の車が滑り込んできた。
杉山海斗の車。
紗夜の表情が変わる。計算が走る。
次の瞬間、紗夜は寧音へ駆け寄り、寧音の手を掴んだ。掴んだまま、わざと体を預けるようにして――
「きゃっ」
寧音に突き飛ばされたように装い、よろめきながら後ろへ数歩、派手に転んだ。
どさっ。
そのまま地面へ叩きつけられた紗夜は、そこで初めて気づく。
足元に、割れたガラス片が散っていたことに。
倒れた拍子に手をついた掌が、ちょうどその破片の上だった。
一瞬で、掌から血がにじみ出し――いや、にじむどころじゃない。じわり、と赤が広がり、次の瞬間にはどくどくと溢れた。
血の中に、細かなガラス片がいくつも食い込み、肉に突き立っていた。
