第4章

痛みで、意識が遠のきそうになる。

「若様……奥さまを責めないでください。若様が出かけられたあと、ちょっと頭が痛くて、奥さまのマッサージができなかったんです。ちょうど外に出たところで礼子さんに会って、親切に病院まで送ってもらって……それで、まさか奥さまと鉢合わせするなんて。奥さまも、きっと一瞬カッとなって押してしまっただけで……」

白井紗夜は痛みをこらえながら、ほんの数言で自分の身をきれいにし、逆に倉持寧音へ罪を被せた。

言葉の端々に涙を滲ませ、無垢で、可哀想で――そう見えるように。

倉持寧音は、その「芝居」を見つめた。

ようやく分かった。なぜ今まで、白井紗夜の本性を見抜けなかったのか。

演技が、上手すぎる。

ほんの少し表情を動かすだけで、人は信じてしまう。

――いつか、この女と真正面から対立したら。

杉山海斗は、どちらを信じるのだろう。

そう思った瞬間、倉持寧音は顔を上げた。

弓なりの睫毛の奥、冴えた月のような瞳で、杉山海斗を見据える。

「……私が押したって、信じるの?」

「俺が――」

言いかけた杉山海斗の言葉を、白井紗夜が遮った。

「私の勘違いです。奥さまが、私にあんなに良くしてくださってるのに……押すわけない。さっき、私がぼーっとしてて……自分で転んだのを、奥さまに押されたって思い込んだんです。全部、私が悪いです」

杉山海斗が倉持寧音を信じることなど、白井紗夜も分かっている。

それでも、人の心は滴が石を穿つように、少しずつ削れる。――誤解を重ねれば、いつか揺らぐ。そう信じていた。

今朝、倉持寧音と交わした「賭け」が脳裏をよぎり、白井紗夜は一瞬迷ってから言葉を変えた。

同情を引くつもりで転んだだけのはずが、本当に怪我をした。

手のひらはずきずきと痛み、涙まで勝手にこぼれる。だからこそ、余計に真実味が出てしまう。

「私はずっとここにいて、よく見てたわよ。紗夜が親切に寧音を支えてあげたのに、寧音が急に怒って突き飛ばしたの!」

橋本礼子が白井紗夜を起こしながら、倉持寧音を睨みつける。

「海斗、あなたの奥さん、甘やかしすぎてますます我儘になったじゃない! このままじゃ、そのうち屋根だってひっくり返すわよ!」

杉山海斗は、白井紗夜を淡々と一瞥しただけだった。

それきり、視線も神経も、すべて倉持寧音へ注がれる。

倉持寧音は、彼が四年追い続けた高嶺の花。

美しくて、柔らかくて、善良で。結婚式の日には、彼を庇って命さえ投げ出した。

この心臓は、この先も倉持寧音のためにだけ鼓動する。

倉持寧音が正しいのは当然。仮に間違っていたとしても――彼は気にしない。

杉山海斗は腰を落として、倉持寧音の前に膝をついた。

そして癖のように、彼女の手を取る。

「寧音。誰が何を言っても、俺はおまえだけ信じる」

それから顔を上げ、橋本礼子へ視線を向けた。

「母さん、寧音が気に入らないのは分かってる。でも、せめて尊重してくれ。二度と、そんな言い方は聞きたくない」

続いて白井紗夜へ、冷えた声。

「白井紗夜。奥さまの付き添い介護士だろ。世話もろくにできない上に、ぼーっとして自分で転んで、奥さまを疑った。今すぐ奥さまに謝れ」

「奥さま……申し訳ありません。私も、どうして急にぼーっとしたのか……本当に、私が愚かでした。どうか、お許しください」

白井紗夜は杉山海斗の気性を知っている。

このN市で彼の機嫌を損ねれば、手足の一本で済まない。運が良くても追放だ。謝る機会をもらえるだけ、まだ「まし」だった。

不本意でも、頭を下げるしかない。

だが、口では謝っていても――瞳の奥に、悔いはひとかけらもない。

倉持寧音にはそれが分かった。

杉山海斗は表向き、彼女の味方をし、信じる素振りを見せる。けれどこの「罰」は、ほとんど罰になっていない。

白井紗夜の目に宿る嫉妬と挑発を見返しながら、倉持寧音は杉山海斗を見下ろした。

「謝れば済むなら、警察はいらないでしょう」

静かに言い放つ。

「白井紗夜に、自分で顔を三回叩かせて。今日の件は、それで終わり」

「奥さまは今日はご機嫌が悪くて……私がぼーっとして、勘違いしたのが、本当に怒らせてしまったんだと思います。でも、手が怪我してしまって……どうやって自分で叩けと……」

白井紗夜は涙をこぼしながら、なおも火に油を注ぐ。

「奥さまが理由もなくお怒りになる時は、いつも若様が宥めてくださって……若様、今回だけ、奥さまにお許しいただけませんか……?」

そして怯えた目で橋本礼子をちらりと伺う。

完全に「被害者」の顔だった。

「理由もなく怒る……?」

杉山海斗は白井紗夜の言葉を、疑いもしなかった。

「寧音、この一年……俺が気づけなかったせいだな。足が不自由で、気持ちが塞いで……紗夜に当たってしまったのか? これからは、もっと一緒にいる時間を増やす。二度と、おまえに嫌な思いはさせない」

倉持寧音の胸が、怒りで激しく上下した。

――理由もなく怒ったことなんて、一度だってない。

口では「信じる」と言いながら。

この男は、心の底では最初から信じていない。

杉山海斗は、彼女が怒っているのを察すると、慌てて白井紗夜を見た。

「紗夜。奥さまの言葉が聞こえなかったのか。自分で三回叩け」

「……三回じゃ足りない。十回にして」

説明なんて、したくなかった。

「機嫌が悪いから当たる女」だと言うなら、見せてやればいい。

「聞いたな。十回だ」

杉山海斗は眉をひそめた。

倉持寧音は、以前ならこんなふうに追い詰めたりしない。

――今日の寧音、どこかおかしい。

白井紗夜が何か吹き込んだのか?

だが、もし寧音が何かを知っているなら――彼女はあまりにも彼を愛している。命さえ投げたほどだ。こんな冷静でいられるはずがない。

そう考え、疑念を強引に押し殺した。

「……分かりました。やります」

白井紗夜は、杉山海斗が一度決めたら覆さないと知っている。

そして何より、倉持寧音と揉めた時、彼は必ず倉持寧音へ傾く。

怒らせたくない。

白井紗夜は怪我をしていないほうの手を上げ、思い切り頬を叩いた。

ぱちん。

いつか必ず、杉山海斗の心を手に入れる。

そう誓いながら、十回、叩き切った。

白井紗夜の頬は赤く腫れ、熱を帯び、指の跡がくっきり残っている。

だが杉山海斗は振り向きもしない。

片膝をついたまま、倉持寧音の傷めた脚を両手で包み、揉みほぐしていた。

「寧音。今日は検診の予定、入ってなかったよな。どうして病院に?」

倉持寧音と白井紗夜、そして母まで一緒にいる。妙だ。

杉山海斗の胸に、嫌な予感が走る。――自分と白井紗夜の関係が、ばれたのではないか。

「最近、脚が少し痛くて。検査しようと思って、前から先生と約束してたの。あなたに言い忘れてただけ」

倉持寧音はゆっくり脚を引き、彼の手から抜いた。

「あなたは? 会社に行くって言ってたのに、どうしてここに?」

橋本礼子は知っている。白井紗夜が杉山海斗の子を身ごもったことを。

では――本人は?

倉持寧音は知りたかった。

杉山海斗がそれを知ったら、白井紗夜を手元に置くのか。それとも堕ろさせるのか。

「母さんが体調悪いって言うから、検査に付き添いに来ただけだ」

杉山海斗は倉持寧音を見つめ、瞳に甘い情を滲ませる。

「寧音……おまえが俺を庇ってくれたせいで、脚があんなことになった。……本当に、すまない」

そして、いつものように言葉が滑らかに溢れ出す。

「寧音。おまえに出会えたのが、俺の人生で一番の幸せだ。子どもも、あと二か月で生まれると思うと……胸が高鳴る。愛してる。誰にも、俺たちを引き裂かせない。おまえと、白髪になるまで一緒にいる」

四年追いかけ、口説き続けた男の告白は、息をするみたいに自然だった。

――背後に橋本礼子と白井紗夜が立っていることを、忘れさえしなければ。

二人とも、杉山海斗が倉持寧音を愛しているのは知っていた。

だが、こんなふうに目の前で、耳元で、吐息みたいに甘い言葉を浴びせる場面は初めてだった。

杉山海斗の視界に、倉持寧音しか映っていない。

白井紗夜は拳を、音もなく握りしめる。

妊娠のことを、いまだ杉山海斗には言えない。橋本礼子にだけ告げたのは、その理由がある。

杉山海斗が白井紗夜を傍に置くのは――

ひとつは、妊娠八か月の倉持寧音が彼を満たせないから。欲望を吐き出すための「代わり」が要る。

もうひとつは、倉持寧音へ輸血するため。

白井紗夜と倉持寧音は、世界でも極めて稀な血液型だ。

出産が近い倉持寧音に万が一があってはならない。だから杉山海斗は白井紗夜を「動く血液袋」として手元に置いた。

数か月前。倉持寧音が妊娠したばかりの頃、杉山海斗が大金をかけて介護士を募集したのも、結局は血液型を選びたかっただけ。

もし妊娠を知れば、杉山海斗は迷わず堕ろさせる。

彼が欲しいのは、最初から最後まで「血」だけで、子どもではない。

橋本礼子も同じだ。

倉持寧音の前では離婚しろと強気に言えても、杉山海斗の前では一言も切り出せない。

結婚式の日、式を取りやめろと一度口にしただけで、杉山海斗は一か月、実の母にすら口をきかなかった。

息子のことは、橋本礼子が一番よく分かっている。

白井紗夜の身体に飽きない程度の興味はあっても、心の中心にいるのは倉持寧音だ。

だからこそ、今日は「体調不良」を口実に病院へ呼び出し、白井紗夜の妊娠を告げる隙を探った。

だが――今ではない。

(もう少し、引き延ばすしかない……)

倉持寧音を追い出せない苛立ちが募り、橋本礼子はうんざりした声で吐き捨てる。

「もういい。こんな人前で、そういう台詞を言うなら家に帰ってからにしなさい。聞かれたらどうするの」

息子の「恋愛脳」が、橋本礼子には耐えがたい。

倉持寧音に向ける愛情のぶん、実の母への冷淡さが際立つ。それが、さらに憎しみを煽った。

そこへ白井紗夜が、震える声で割って入る。

「若様……私、十回叩いたせいで、手の傷からもっと血が……。さっきのガラス片、何か菌でもついていたらと思うと……感染したら、奥さまのお世話もできません。先に処置を受けてきます。若様、どうか奥さまのご機嫌を……」

杉山海斗が倉持寧音の脚を揉む手を、白井紗夜はじっと見つめた。

昨夜、その手は自分の頬を包み、「一番愛してる」と囁いたはずなのに。

嫉妬で、頭が焼けそうだった。

杉山海斗が自分の血を最優先することも知っている。

白井紗夜は血まみれの手を押さえ、ふらつきながら倉持寧音に向き直った。

「奥さま……私たち、長い付き合いですもの。奥さまのお人柄は、私が一番よく分かっています。奥さまは優しい方で……ずっと私を気にかけてくださった。そのご恩は、忘れたことがありません。さっきは、本当に私が愚かでした。申し訳ありません」

そして深々と頭を下げ、もう一度謝った。

謝りながら、両手を重ねてぎゅっと握り込む。

じわっ――ではない。

どくどくと、血が溢れ出した。

白井紗夜の足元が、赤く染まっていく。

杉山海斗は、彼女の傷に気づいていなかった。

近くで頭を下げたことで、ようやく見えた。手のひらは裂け、そこにガラス片が食い込んだまま――見るに堪えない。

白井紗夜が身を翻した、その瞬間。

杉山海斗の脳裏をよぎるのは、もうすぐ出産を迎える倉持寧音だった。白井紗夜の血は、今後さらに重要になる。

彼は倉持寧音の脚から手を離す。

「寧音。紗夜は……おまえの友達だろ。友達同士、ちょっとした行き違いくらいある。さっき、十回叩いて謝ったんだ。おまえも、もう気は済んだはずだ」

言い訳のように続ける。

「それに、紗夜はN市に身寄りもない。手の怪我もひどい。先に俺が処置に付き添う。後で、家に戻っておまえのところへ行く」

倉持寧音が拒む間も与えず、杉山海斗は白井紗夜を連れて救急処置室のほうへ足早に向かった。

倉持寧音は、二人の背中を見送った。

握った拳に、力がこもる。

杉山海斗が――自分の目の前で、白井紗夜のために自分を置いていった。

初めてのことだった。

胸は、まだ少し痛む。

それでも倉持寧音は、自分に言い聞かせる。

大丈夫。

白井紗夜を家に置いたのは――自分が、完全に諦めるためだったのだから。

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