第5章

「見ただろ? 海斗は口じゃ『おまえが大事だ、愛してる』なんて言っても、紗夜がケガしたって分かった途端、あんたを置き去りにした。あいつの中で本当に大事なのが誰か――もう分かったでしょ!」

橋本礼子は、杉山海斗が白井紗夜を抱きかかえて出ていく背中を見送ると、くるりと振り返って倉持寧音を見据えた。

口元には、勝ち誇った笑み。

「今日ここに呼び出したのも、白井紗夜でしょ? あんた、あの子のこと大好きみたいだけど……家のこと、どれだけ知ってるの?」

寧音は捨てられた胸の痛みを嚙み殺し、表情ひとつ変えない。

「どういう意味ですか。白井紗夜に、何かあるんですか?」

礼子はこのところ、紗夜が男の子を身ごもったという喜びに浮かれていた。

車椅子で、何かあるたび世間体に響く――そんな嫁はさっさと替えたい。そう思うばかりで、紗夜の身辺を探る余裕などなかった。

寧音にそう言われて、ようやく引っかかった。

「……あなた、何を知ってるの?」

寧音は薄く笑うだけだった。

「お義母さまが白井紗夜をお望みなら、願いが叶ったその日に、いずれお会いになるんじゃないですか。……その時も、今みたいに笑っていられるといいですね」

白井紗夜には、賭け事に溺れた両親がいる。さらに、闇金まがいのことをしている弟も。

杉山グループの一人息子、杉山海斗に嫁いだと知れば――あの一家はヒルのように杉山家に貼りつき、血を吸い尽くすまで離れない。

寧音は車椅子のリムを握り、病院の奥へ向かった。

ほどなく、お兄さんが紹介してくれた医師――千堂暁の診察室に辿り着く。

千堂暁はカルテを見ながら、淡々と言った。

「元々の損傷は重かった。骨は鋭利なもので貫通、腱も損傷している。ただこの一年、杉山さんが各所を当たってくれたおかげで、骨自体はほぼ問題ない。腱も繋がっていて、経過は悪くない」

寧音は息を詰めて、続きを待つ。

「立てない理由は別だ。長く使ってこなかったことで機能が落ちている。……リハビリを継続し、車椅子への依存を減らせば、立って歩ける可能性はある」

以前、海斗が呼んだ医師も同じことを言っていた。

だが寧音は信じなかった。自分には無理だと決めつけ、海斗に甘えた。

――立てなくても、海斗は私を嫌がらない。

そう、どこかで思っていた。

だが「立てる可能性がある」と確かに告げられた瞬間、胸の奥に、これまでにない火が灯った。

子どもを産む。

そして車椅子から立ち上がる。

海斗が人生でいちばん幸せな瞬間に――浮気の証拠を突きつけ、叩き落とす。

帰宅すると寧音は、真っ先に屋敷のリハビリ室へ入った。

簡単なメニューを繰り返し、じわりと汗が滲む。やがて額からぽたぽた落ちるほどになって、ようやく外へ出た。

千堂暁の鍼治療と運動のせいか、脚が以前より少しだけ「動く」。そんな感覚がある。

力が、戻りかけている――そんな気がした。

タオルで頬の汗を拭き、客室へ戻ろうとして、廊下の壁に目が止まった。

そこに飾られているのは、海斗と自分の結婚写真。

あの時は、自分がどれほど幸せだと思っていたか。

今は、その分だけ苦しい。

「これ、外して」

寧音が言うと、使用人たちは顔を見合わせた。

「奥さま、ずっと飾ってあったものですし……外したら、どちらにお掛けしますか?」

寧音は窓の外――門のそばに置かれたゴミ箱を指した。

「掛けない。捨てて」

一方、その頃。

救急の処置室で、白井紗夜の手はすでに包帯で巻かれていた。医師が出ていき、周囲に誰もいなくなった瞬間、紗夜は大胆に肩紐をずらし、ワンピースを腕まで落とした。

そして振り返ると、艶めいた指先で海斗のベルトの金具に触れる。

「病院では……まだですよね。試してみません?」

囁きながら、唇が海斗の顎に触れる。

寧音にはもう八か月触れていない。あと二か月も待つのかと思うと、腹の奥がじりじりと熱くなる。

目の前の身体はいやに挑発的で――

海斗は、一瞬だけ紗夜の顔を寧音に重ねた。

衝動のまま、紗夜のうなじを掴む。

だが次の瞬間、脳裏をよぎったのは、さっき車椅子に座っていた寧音の姿。

帰宅したら、寧音の食事も作らなければならない。

理性が冷水のように落ち、海斗は紗夜を突き放した。

「俺たちの関係は、寧音が子どもを産んだら終わりだ」

「あと二か月は大人しくしてろ。さっきの件もな――寧音がぼんやりしてたのを、おまえが勝手にそう見たのか、本当に何かあったのかは知らない。でも寧音は、おまえが触れていい人間じゃない。二度とこんなことはするな」

熱はまだ胸にくすぶっていたが、欲は押し込められていた。

紗夜は、すぐに従順な笑みを作る。

「若様、ご安心ください。あと二か月、必ず分をわきまえます」

それから、申し訳なさそうに目を伏せた。

「ただ……先生に言われたんです。私、よくふらつくのは貧血だって。奥さまの出産の時、十分な血漿を用意できるように……若様が奥さまに用意されている栄養の品、私にも同じものを一式いただけませんか?」

寧音との賭け。

生活の細部から少しずつ、寧音の居場所を削っていく。紗夜はそう決めていた。

それに――あの贅沢な補助食品の数々は、ずっと喉から手が出るほど欲しかった。

手に入れば、寧音を苛立たせられる。自分の懐も潤う。

一石二鳥。

「寧音と同じものが欲しいのか」

海斗が寧音に揃えているのは、世界中からかき集めた最高級品ばかりだ。

正直、紗夜にまで出すのは惜しい。

だが――紗夜は、今のところ寧音と同じ血液型で見つかった唯一の存在。

貧血が悪化すれば、寧音へ回せる量が減る。

海斗は、短く息を吐いて頷いた。

「分かった。用意させる」

「ありがとうございます、若様。若様と奥さまのご恩は、一生忘れません」

紗夜は弾むように顔を寄せ、海斗の頬にちゅっと口づけた。

腹の中の子も、寧音の子に負けるはずがない――そう確信しながら。

夜。

海斗と紗夜が屋敷へ戻ると、海斗は反射的にリビングのソファへ視線を向けた。

この一年、帰宅すれば必ず寧音がそこにいた。

だから、探してしまう。

だがこの一か月、寧音は待っていない。

今日も、どこにも姿がなかった。

「奥さまは?」

「奥さまは、リハビリのあとお部屋へ戻られて休まれました」

使用人は言い、そして思い出したように付け加える。

「若様……奥さま、きっとお怒りです。先ほど病院で、奥さまを置いて私の処置を優先されたでしょう?」

紗夜は口角が上がりかけるのを抑え、悔いるふりで眉を下げた。

海斗は苛立たしげに言った。

「貧血なら部屋で休んでろ。騒ぐな」

処置室へ急いだせいで、寧音を送る手配ができなかった。寧音が腹を立てるのも当然だ。

今の海斗の頭は、どう寧音を宥めるかでいっぱいで、紗夜の声がただ煩わしい。

寧音が起きていれば、海斗の意識は全て寧音へ向く。

紗夜はそれが悔しかったが、結局は大人しく引き下がるしかない。

自室へ戻ると、内装は主寝室に劣らないほど整っている。

紗夜は唇を噛み、心の中で言い聞かせた。

――あと二か月。必ず、私が奪う。

この家の女主人は、いずれ私だ。

海斗は紗夜の思惑など知らず、二階へ上がった。

主寝室の扉を開ける。ベッドは空。

隣の客室へ行くと、案の定、布団の中に小さな膨らみがあった。寧音だ。

寧音はもともと細い。妊娠してもほとんど肉がつかなかった。

八か月の今も、目立って変わったのは高く大きくなった腹だけで、他は結婚前と大差ない。

海斗はベッド脇に立ち、眠る寧音の顔を見下ろした。

甘い寝顔。息を呑むほど整った顔立ち。

腰を折り、そっと頬にキスを落とす。

――これが、俺が焦がれてやまない、たったひとりの最愛。

見ているだけで、胸がふっと明るくなる。

「寧音……」

もう一度呼んでも、寧音は目を覚まさなかった。

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