第6章

「寧音……」

杉山海斗がもう一度呼んだ。

慌てふためき、このまま目を覚まさなかったらどうしよう――そんな不安が胸を締めつけた、その時。

倉持寧音が、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

「寧音、どうしたんだ? さっきから呼んでも起きないから……何かあったのかと思って、ほんとに肝が冷えた」

目が合うなり、杉山海斗はほっとした顔で彼女を抱きしめる。

抱き寄せる腕も、指先も、かすかに震えていた。

寧音は首を傾け、彼の表情を見返す。

切実で、必死で、いかにも愛しているという顔。

――なのに。

自分の目の前で、白井紗夜と主寝室で絡み合っていた光景が、脳裏に焼きついたまま消えない。

胸の奥が、鈍く痛んだ。

どうして。

こんなにも私を愛しているように見えるのに、どうして平気で裏切れるの?

「帰ってきて疲れて……うっかり寝ちゃっただけ」

寧音は杉山海斗の胸を押し、わずかに身を引いた。

彼の身体から、白井紗夜の香水がふわりと漂う。

吐き気が込み上げる。

一秒たりとも触れてほしくなかった。

「そんなに寝てたらお腹空いただろ? 石川さんが、今日あんまり食べてないって言ってた。何か食べたいものあるか?」

「食欲ない。いらない」

拒む気配に、杉山海斗は気づかない。

大きな手で彼女を抱え直すと、顎を指で軽く押さえ、唇を奪おうとする。

「旦那、しばらく触れられてなかったもんな。寂しかった? ご飯がダメなら……旦那のほう、食べたくない?」

彼は最初から知っている。妊娠中期なら、夫婦生活は適度にしてもいい。

それでも寧音を大事にしすぎるほど大事にして、彼女と子どもに万一があったらと思うと手を出せずにいた。

一か月前までの寧音は、ふいに頬へキスをしてきたり、わざと彼をからかったりしていたのに。

この一か月、そういう甘えがぱたりと消えた。

寧音の冷えた眼差しに、杉山海斗の胸がざわつく。

触れれば確かめられるはずだ。寧音は変わっていない、全部自分の考えすぎだ――と。

だから彼は、顔を寄せた。

「もう妊娠後期だよ。お医者さまも、そういうのは控えたほうがいいって言ってた。ふざけないで。早くご飯作って」

唇を塞がれ、歯を割って入り込もうとされた瞬間。

寧音は力いっぱい押し返した。

「……わかった。ってことは、寧音はやっぱり腹減ってるな。すぐ作る」

杉山海斗は、妊娠中はホルモンの影響でそういう気分になりにくい、と医師が言っていたのを思い出す。

触れられたくないのも、そのせいだろうと自分に言い聞かせた。

もう少し待て。

子どもが生まれれば、きっと元に戻る。

そう思うと、彼は笑って寧音を抱き上げ、1階のダイニングへ連れていく。

自分の手で靴下を履かせ、水を注いでから、ようやくキッチンへ向かった。

……こんなに愛情深いふりをできるのに、どうして浮気をするの?

白井紗夜を連れて出ていった背中が脳裏によみがえり、寧音は自嘲するように目尻の湿りを拭った。

十五分後。

じゅうっと香ばしい音を立て、焼き上がったステーキが皿に乗って運ばれてくる。

杉山海斗は手際よく切り分け、フォークで一口分を刺して寧音の唇元へ。

「寧音、もう怒らないでくれ。今日、紗夜を処置に連れていかなかったら、手がダメになってたかもしれないんだ」

「掌にガラスが1センチも刺さっててさ。洗浄の時なんて、痛みで気絶しかけてた」

杉山海斗は帰宅してすぐ、使用人から「2階の廊下のウエディング写真が捨てられていた」と聞かされた。

もう回収させてはある。だが料理をしながら考えた。今夜の寧音の冷たさは、きっと怒っているせいだ、と。

「別に怒ってない」

寧音は、腹の子のための栄養と、自分の身体を保つために、差し出されたステーキを黙って食べた。

「じゃあ、なんで写真をゴミ箱に捨てさせたんだ?」

「いつまで経っても脚が立たないでしょ。写真の中の私は立ってるから……見てると、ちょっとしんどくて。だから外してもらっただけ」

言い訳にしては、少し無理がある。

杉山海斗はそう思いながらも、胸が痛んだ。

倉持寧音は、彼にとって憧れそのものだった。初めて見た瞬間から、この人以外と結婚しないと誓った。

四年追いかけ続け、無理だと思っていたのに――巡り巡って、彼女は妻になった。

だから、寧音が少しでも不機嫌なのが耐えられない。

「怒ってないならよかった。なあ寧音、前にずっと観たいって言ってた映画、あっただろ? 最近は会社のことで忙しくて時間取れなかったけど……今日は全部空けたんだ。飯のあと、一緒に観ないか?」

寧音が彼のフォークから口に運ぶのを見て、杉山海斗はまた次の一切れを切ろうとする。

その瞬間、スマホが震え、白井紗夜から写真が届いた。

ナース服にナースキャップ。

けれどポーズはあまりにあからさまで、表情も艶めかしすぎる。どう見ても、ふざけた趣味の衣装だ。

寧音に見られるのを恐れて、杉山海斗は反射的にスマホを裏返した。

だが彼は知らない。ロックを解除した一瞬で、寧音はもう見てしまっていたことを。

その後、杉山海斗は寧音とシアタールームで映画を観る。

飲み物、果物。寧音が目で合図するだけで、言葉にされる前に察して差し出してくる。

彼の世話は、いつも息が詰まるほどに細やかだった。

夜11時。

寧音が身支度を終え、眠ろうとした頃。

浴室にいた杉山海斗のスマホに、白井紗夜からメッセージが入った。

『若様、熱が出ました……お風呂で傷口に水が入って、感染したみたいです。来ていただけませんか? 菌が入ったら、明日採血できなくて……奥様のための血漿が……』

この半年、白井紗夜は杉山海斗に連れられ、定期的に病院で採血していた。

寧音の出産に備えて、血漿を確保するため――という名目。

彼女は分かっている。血の話を出せば、杉山海斗は必ず来る。

過去半年、それで勝てなかったことは一度もない。

『何度まで上がった? 今すぐ行く!』

傷の感染が、明日の採血に響く。

そう思っただけで、杉山海斗は焦って返信した。

浴室を出ると、彼は寧音の布団を整え、枕元の灯りをいつもの明るさに調整する。

「寧音、会社の用事がある。書斎で少し片づけてくるから、先に寝てて。待たなくていい」

返事を待たず、踵を返した、その背中に。

「杉山海斗。……私のこと、まだ愛してる?」

寧音はスマホを握った。

白井紗夜から、さっき自分にも連絡が来ている。

杉山海斗が今ここを出るのは、会社の用事じゃない。白井紗夜に会いに行くためだ。

身体はここにあるのに、心はいつだって白井紗夜へ飛んでいく。

下の部屋で、あの趣味の衣装を着て待っているのだと思うと――どうしても、聞きたくなった。

「寧音、もちろん愛してる」

杉山海斗は振り向く。

薄暗い灯りの中で、寧音の整った顔立ちと、なだらかな首筋が浮かぶ。息を呑むほど美しい。

ごくり、と喉が鳴った。

彼は堪えきれず寧音の顎を取ると、さっきの浅い口づけを、今度は深くした。

手もまた、寧音の寝間着の中へ滑り込んでいく。

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