第3章
「なんだって? 別れる?」
伊藤尚久の顔が、みるみるうちに険しくなる。ホテルの廊下で、彼は私の腕を掴んだ。
私は冷静にその手を振り解き、皺になった袖口を直す。
「私たち、三ヶ月以上前に別れたはずよ。青空アニメーションの会議室で、あなたも同意したじゃない」
「あれはただの喧嘩だろ! ここで何してるんだ、まだ気が済まないのか?」
伊藤尚久の声には苛立ちが滲んでいた。
「忘れるなよ、『星の軌跡』のヒロインのデザイン稿はまだ最終修正が残ってる。制作委員会が来週検収するんだぞ」
「修正を終えたデザイン稿は全部あなたのメールに送ったわ」
私は平然と告げる。
「契約上の義務は、すでに履行済みよ」
伊藤尚久は目を細め、脅すような口調で言った。
「いいだろう、岩岸友佳子。今俺が差し伸べてるこの手を払いのけるなら、後で後悔することになるぞ! 覚えておけ、今後復縁を申し出た方が犬だ!」
私は彼の言葉を無視し、個室へと踵を返した。
同窓会はすでに盛り上がりの真っ只中だった。
席に着くとすぐ、一人の女子生徒が寄ってきた。
「友佳子、伊藤尚久くんと本当に羨ましいわ。八年も付き合って、一緒に素晴らしい作品をたくさん作って、简直に業界の模範カップルよね」
個室内が、不意に静まり返る。皆の視線が私に集まった。
私は深呼吸をして、もう隠すのはやめようと決めた。
「私と伊藤尚久は、もう別れたの」
「えっ?」
「嘘でしょ!」
「どうして?」
同級生たちの驚きの声が、あちこちから上がる。
「先月の『ANIMAGE+』で、二人が協力した新キャラクターの設定が記事になってたじゃないか」
一人の男子生徒が困惑したように言う。
「それに、さっき結婚するって……」
私が説明しようとしたその時、伊藤尚久がドアを押し開けて入ってきた。彼は息巻いて言い放つ。
「ああ、別れたよ。俺が振ったんだ。さすがに長すぎると、飽きもするだろ」
彼が自分の体面を保とうとするのを見て、私は軽く溜息をつき、バッグを手に立ち上がった。
今夜の目的はもう達成した。これ以上、皆に私たちがまだ付き合っていると誤解されたくなかった。
何人かの女子生徒が追いかけてきて、伊藤尚久を促す。
「何か誤解があるんじゃないの、伊藤くん。早く友佳子にちゃんと説明して謝りなさいよ!」
「誤解なんてないわ」
私は再び強調する。
「本当に別れたの。もう三ヶ月以上も前に」
廊下の真ん中に立つ伊藤尚久の表情は、晴れたり曇ったりと定まらない。
「それに」
私は付け加えた。声は穏やかだが、確固たる響きを持っていた。
「私、十一月二十二日に結婚するの」
その一言は爆弾のように、廊下に炸裂した。
同級生たちは目を丸くし、伊藤尚久の顔色は土気色に変わる。
ちょうどその時、エレベーターのドアが開き、長身の男性が姿を現した。
シンプルなダークスーツを纏い、金縁眼鏡の奥の眼差しは優しく、そして揺るぎない。私を見ると、彼は微かに笑みを浮かべ、まっすぐこちらへ歩み寄ってきた。
私は自然に彼の腕を取り、同級生たちに紹介する。
「こちら、月島正海さん。私の婚約者です」
「かっこいい……」
女子生徒たちの小さな感嘆の声が聞こえた。
伊藤尚久も当然その光景を目にしていた。彼は怒りに任せて私を問い詰める。
「岩岸友佳子! そいつは誰だ、なんでそいつの腕を組んでる!」
私は眉を顰め、もう一度繰り返した。
「耳が聞こえないの。私の婚約者よ、婚約者」
伊藤尚久は怒りに燃え、一歩前に出る。
「こいつがお前の婚約者? じゃあ俺は何なんだ? お前のキャラクターデザインが今日あるのは、全部俺がお前にチャンスを与えてやったからだぞ!」
彼は私の方へ向き直り、その目は私と月島正海の間を行き来する。やがて何かを理解したように、嘲るような口調になった。
「ああ、なるほどな。なんだ、俺が結婚したくないからって、こんな芝居を打ったのか? そんなことで俺が焦ると思ったか?」
月島正海が私の前に立ち塞がり、低く力強い声で言った。
「君ごときが、友佳子に芝居を打たせる必要などあるのか?」
「なんだとてめえは?」
伊藤尚久は月島を上から下まで値踏みするように見つめる。
「何の権利があってここで俺と口を利いている?」
月島正海は喚き散らす伊藤尚久を意にも介さず、優雅にスーツの内ポケットから名刺を取り出し、そばにいた同級生に差し出した。
「友佳子の同級生の皆さん、初めまして。月島正海です。お会いできて光栄です」
同級生の間で、その名前に聞き覚えがある者がいた。
「月島……って、まさか……」
誰かがスマートフォンで月島の情報を検索し始め、その目はどんどん大きく見開かれていく。
「おい、てめえに話してんだよ。俺と彼女が喧嘩してるんだ。いくらで雇われた? 倍払ってやるから、とっとと消えろ」
伊藤尚久が命令する。
月島正海は彼を一瞥した。
「僕の給料は、君には払えないだろうね」
そう言って月島はそっと私の肩を抱き、同級生たちに向き直る。その声は優しく、しかし有無を言わせぬ響きがあった。
「私と友佳子の結婚式を、十一月二十二日、新宿モダンホテルにて執り行います。私たちが共同で制作した新作『無限の夢』をテーマにする予定ですので、皆様にもぜひご臨席賜りたく存じます」
私たちはエレベーターに乗り込み、ドアがゆっくりと閉じていく。
最後の瞬間、同級生たちがついに月島の正体に完全に気づいた声が聞こえた。
「嘘でしょ、あの人、アメリカから帰国して日本のアニメ制作プロセスを改革した、あの月島正海よ!」
