第1話
土砂降りの雨が西郊霊園の地面を容赦なく叩きつけ、浅倉晴香の魂は、建ったばかりの新しい墓の上にふわりと漂っていた。
墓石に刻まれた『高坂淵愛妻――浅倉晴香之墓』という文字を見た瞬間、胃の奥がひっくり返るような吐き気が込み上げる。
雨幕を裂くようにヘッドライトが走り、黒いセダンが数台、墓園へ雪崩れ込んだ。甲高い急ブレーキ音が耳を劈く。
車から降りてきた神城深也の顔には、凍てつくような殺気が張り付いていた。
黒い傘を差した佐藤哲也が追いすがるが、深也は乱暴に突き飛ばす。傘など要らないと言わんばかりに豪雨を浴びながら墓石の前へ駆け寄り、食い入るように刻字を睨みつけた。
「誰が許した……誰が、お前の隣に名前を刻むのを許したんだ!」
掠れた声で吠え、腰のあたりから短刀を抜き放つ。柄で墓石を激しく叩きつけた。ガン、ガンと鈍い音が響き、手の甲が痺れて血が滲む。それでも彼は止めない。何度も、何度も。ついに墓石に亀裂が走った。
「哲也! 新しい碑を立てろ! 今すぐだ!」
振り向いた目は真っ赤に血走っていた。
慌てたボディガードたちが、用意していた新しい墓碑を運んでくる。そこに大きく刻まれていたのは――『神城深也愛妻浅倉晴香』。
宙に漂う晴香の魂が、びくりと震えた。
自分はあれほど彼を深く傷つけたのに。どうして深也は、まだこんなことを――。
深也は泥の上に膝をつき、両手で力任せに墓土を掻き分け始めた。爪が一瞬でめくれ上がり、赤い血が泥に混じる。
「晴香、怖がるな。今、出してやる」
掘りながら、ぶつぶつと呟く。その声は酷く震えていた。
「中は暗い。お前、暗いのが怖いだろ……?」
見かねた佐藤哲也が隣に膝をつき、泣き叫ぶ。
「社長! やめてください! 晴香様はもう三日も前に……どうか、安らかに眠らせてあげてください!」
「黙れ!」
深也は哲也を蹴り倒し、眼の奥に濃い殺意を宿した。
「死んでない。誰が死んだって言った? 言った奴は殺す」
雨はさらに激しくなり、十本の指は血と肉でぐちゃぐちゃになっていく。ようやく黒い棺が、泥の中から姿を現した。
深也は棺の蓋に縋りつき、荒く息を吐いた。だが次の動きは、異様なほど丁寧だった。震える手で釘を一本一本、無理矢理引き抜いていく。
カチッ、と鈍い音がして蓋が押し開かれ、腐臭が一気に噴き出した。けれど深也は眉ひとつ動かさない。
晴香の魂が近づく。
棺の中――自分の遺体。胸には大きな穴が開き、眼窩は虚ろで、凄惨な死相を浮かべている。
それでも深也の目は、ふっと柔らかくなる。
彼は手を伸ばし、氷のように硬い頬をそっと撫でた。雨と涙が混ざって、遺体の顔を打つ。
「……ごめん、晴香。遅くなった……」
不意に顔を上げ、哲也へ視線を向ける。
「持ってきたか?」
哲也は震えながら、ウェディングドレスの入った防塵袋と、血が滲む恒温ケースを差し出した。
神城深也がケースを開ける。中にあったのは、真っ赤な心臓と眼球。
彼の口元が、歪んだ笑みに持ち上がった。
「晴香、見ろ。高坂淵の眼玉と……あいつの愛した女の心臓、全部持ってきてやった」
彼は心臓を両手でそっと捧げるように取り上げ、浅倉晴香の空洞の胸に、丁寧に押し込んだ。
「あいつはあの女のために、お前の心臓を抉った。だから俺は、あの女の心臓を抉って、お前に埋めてやる」
晴香の魂が激しく震える。抱きしめたい。やめてと叫びたい。
なのに、その手は彼の身体をすり抜けるだけだ。
――自分は高坂淵と結婚するために、深也の心を徹底的に踏みにじった。その結果がこれだ。
結婚後、淵から受けたのは絶え間ない暴力。
三日前には手術台に縛りつけられ、麻酔もなく心臓を抉り取られた。あの女に移植するために。
彼が優しかったのは、ただ自分の心臓があの女に適合したから――それだけだったのだ。
痛みと後悔の中で死に、遺体は雑にここへ埋められた。
自分の死を気にしたのは、捨てたはずの男――深也だけだった。
深也は服で手を拭い、防塵袋を開ける。中から、この場に似つかわしくないほど華麗なウェディングドレスを取り出した。
「晴香。これ、五年前に作らせたんだ。お前、ずっと試そうとしなかったな」
声は優しく、狂気を孕む。
「今日、俺が着せてやる。いいだろ?」
彼は晴香の硬直した遺体を抱き上げ、少しずつ、丁寧にドレスへ着替えさせた。
灰色の肌は隠しきれない。それでも深也の目には、彼女は世界で一番美しい花嫁だった。
口紅を取り出し、慎重に塗り、髪も整える。
「……綺麗だ」
その瞳は、どうしようもなく深情だった。
晴香は声にならない叫びで泣く。
深也! 馬鹿……どうしてそこまで……私なんか――!
深也は晴香を抱いたまま棺へ横たわり、外へ向かって怒鳴った。
「哲也、全員連れて消えろ! 邪魔しに来た奴は撃つ!」
哲也はそれ以上何も言えず、泣きながら部下を連れて墓園を出ていく。
止められない。死に場所を求める深也を。
棺の中で、深也は遺体をきつく抱きしめ、さっきの短刀を拾った。刃先を自分の腹へ向ける。
「晴香。黄泉路は寒いから……待ってろ。すぐ追いかける」
笑って、手首に力を込める。
ぶすっ、と刃が腹へ深く潜り、血が噴き出した。赤が晴香のウェディングドレスを染め、じわじわと広がっていく。
「……っ」
苦悶の声。それでも笑みはむしろ穏やかになる。
抜いて、もう一度。今度はさらに深く。血は止まらない。
浅倉晴香の魂は彼に覆い被さり、声なき絶叫を上げる。
やめて! 深也、お願い、やめて――!
深也の意識が霞んでいく。彼は晴香の首元に顔を埋め、声はどんどん小さくなるが、口角はずっと上がっていた。
「来世は……来世は、もう俺から逃げるな……な?」
「高坂淵のクズは……海に沈めてやった……もう誰も、お前を傷つけられない……」
瞳孔が散り始めても、抱く腕はむしろ強くなる。
晴香は、彼の呼吸が止まるのを見た。いつも意地みたいに自分を見つめていた目から、光がゆっくり消えていくのを。
「深也! 来世があるなら、もう二度とわがまま言わない、二度とあなたから離れない!」
誓いが落ちた瞬間、天から白光が降り注いだ。
光は棺と二人を包み込み、晴香の魂を巻き上げる。めまいが襲い、意識が途切れた。
――頭が割れるように痛い。瞼が重く、どうしても開かない。
自分は……死んだはずでは?
心臓の位置が、またずきりと痛む。白い光が目に刺さる。
晴香は勢いよく目を開け、荒く息を吸った。冷汗が背中を一気に濡らす。
目に入ったのは、豪奢なメイクルーム。姿見に映るのは、青白い顔。
鏡の中の女は、ビスチェタイプのウェディングドレスを着ていた。裾にはレースがびっしり。
晴香は呆然とし、反射的に左胸を強く押さえた。
ドクン、ドクン、ドクン。
掌越しに力強い鼓動。指先が痺れるほど。
胸は平らで、傷ひとつない。穴など、ない。
――心臓が、ある。
壁の電子時計へ目を向ける。
2023年10月10日。
瞳孔がきゅっと縮む。二年前。淵という畜生に嫁いだ日。
生まれ変わった?
神様が、本当に誓いを聞き届けてくれた?
笑いそうになるのに、目の奥が熱くなった。
深也……生きてる。自分も生きてる。深也も――。
その時、彫刻入りの扉が外から押し開けられる。
「晴香、準備はできた?」
穏やかな声。だが晴香の全身の産毛が一斉に逆立った。
首をぎこちなく回す。
高坂淵が白いスーツで、鈴蘭の花束を抱えて歩いてくる。顔には優しい微笑み。
けれど晴香の目には、その顔が、メスを持つ悪魔と完全に重なっていた。
前世――この手で自分の胸を裂いた。
記憶が蘇る。あの時の言葉。
「晴香、優奈の心臓が悪いんだ。そんなに僕を愛してるなら、君の心臓をあげてくれない?」
今と同じ笑顔。優しすぎて、背筋が凍る。
