第10話
後頭部に鋭い痛みが走り、晴香は必死に瞼をこじ開けた。目の前は闇。窓の外から、ゴロゴロと雷鳴と豪雨の音だけが叩きつけてくる。
冷たい床にうつ伏せのまま、意識はまだ霧の中だ。
ここは……どこ? そうだ、深也の書斎。
それに――深也を陥れようとしてた、あの二人のクズ……!
記憶が一気に押し寄せ、晴香は首の痛みも構わず、手足をばたつかせて暗闇を探った。
見つけなきゃ。絶対に。
あいつらは偽造した脱税の証拠を、金庫の脇の隙間に押し込んだ。
明日、税務署に出てきたら――深也は終わる。
数百億規模の脱税。牢獄の底まで落とされる。創世グループだって、巻き添えで崩れる。
淵――あの畜生。どこまで毒なんだ。
「どこ……どこなの……」
額から汗がつうっと落ちる。指先は床をめちゃくちゃに撫で回し、爪が割れても気づかない。
やがて、ざらりとした感触が指に引っかかった。牛皮紙。
あった。金庫の横の、あの狭い隙間だ。
晴香は膨らんだ書類袋を両手で掴み、全力で引きずり出そうとする。だが、きつく噛み込んでいて動かない。奥歯を噛みしめ、全身の力を腕に込めた。
ビリッ。
紙が裂ける音とともに、袋が抜けた。
「はっ……はっ……」
大きく息を吸う。立ち上がる余裕すらない。膝をついたまま、袋を握り潰す勢いで封を裂こうとした。
中身さえ消せば、淵の企みは潰れる。深也は助かる。
――けれど、指が封の端にかかった、その瞬間。
パァン、と弾けるように照明がついた。
刺すような光に、晴香は反射的に目を閉じる。
コツ、コツ、と足音。
心臓がひゅっと縮んだ。震えるまま顔を上げる。
扉のところに深也が立っていた。黒いシャツ。襟元のボタンが二つ外れ、覗く鎖骨には拭い切れていない酒の染み。
逆光の中の横顔は、凍りつくほど陰惨だった。
背後には黒服のボディガードが二列。出入口を塞ぐように並んでいる。
深也の視線が、晴香の手へ突き刺さる。
――正確には、彼女が死に物狂いで掴んでいる牛皮紙袋へ。
空気が一瞬で凍った。
猩紅の目に射抜かれ、晴香は全身が固まる。
終わった。誤解される。
「深也、違う! これ、私が入れたんじゃない! 壊そうとしてただけ……信じないなら監視を見て!」
言葉がもつれて転がる。淵が仕掛けた罠だと、必死に伝えたかった。
深也は晴香を睨み据えたまま、数秒だけ沈黙した。
それから、やっと顎を引く。スマホを取り出して操作し、監視映像を確認する。
晴香は祈るように画面を見つめた。
――真っ黒。
何も映っていない。
血の気が引いた。
「……っ」
まだ何か言おうとした、その時。影が落ちた。
深也が大股で迫り、怒りをそのまま形にしたような圧がのしかかる。
パァン!
乾いた音。頬が裂けるように熱く、身体が傾いて床に転がった。口の中に鉄の味。耳鳴りが、じわじわと世界を歪ませる。
全力の一撃だった。
「……やるじゃないか」
深也が屈み、髪を掴んで無理矢理顔を上げさせる。目の奥は嘲りと失望で濁っていた。
「俺も甘かった。神城家の監視を真っ黒にできる技術……お前以外、誰がいる?」
「酒精アレルギーだの、吐血だの……全部、芝居だろ?」
腫れ上がる頬を見ながら、深也の胸がきりきりと痛む。
さっき浴室で吐血したのを見た瞬間、頭が真っ白になった。抱えて病院へ走ろうとすら思った。
それでも自分に言い聞かせた。騙されるな、こいつは嘘つきだと。
なのに――吐いた直後に書斎へ忍び込み、俺を陥れようとした?
警護が気配に気づかなければ、また騙されていたのか。
「ち、違う……監視を黒くしたのも、私じゃ……」
頭皮が引き裂かれるほど痛い。涙が溢れ、口元の血と混ざって落ちる。
「この偽証も……私じゃない……淵が人に入れさせて……私は壊そうと――」
「黙れ!」
深也の怒号が叩き落ちた。
晴香の手から袋を奪い取り、机へ叩きつける。
「まだ編むか。まだ俺を騙すか!」
「お前の口に、真実は一つでもあるのか!」
目が真っ赤だった。胸が激しく上下する。
「俺はさっき……信じかけた」
「本当に後悔してるのか、赎うつもりなのかって」
「医者を下で待機させた。お前が本当に死ぬかもしれないと思って!」
息が詰まるほどの怒りを吐き捨てる。
「それなのにお前は、俺の心の弱さを道具にして動いた」
深也が一歩、また一歩と迫る。高い身体に壁際へ追い詰められ、晴香は逃げ場を失った。
胸が苦しい。息が吸えない。
分かっている。今さら何を言っても、彼は信じない。
前世の裏切りが、彼の信頼を食い尽くした。
報いだ。自分が蒔いた種だ。
深也はしゃがみ込み、長い指で顎を挟む。骨がきしむほどの力。
「機会はやった」
「俺を潰したいなら、淵が好きなら……俺の命で媚びたいなら――」
ふっと笑った。
温度のない笑み。背筋が凍る。
「一緒に地獄へ落ちろ」
「この一生、お前は二度とあいつに会えない」
「ここから一歩も出すな」
乱暴に手を放し、嫌悪するように服で拭う。
「来い!」
深也が立ち上がる。顔はいつもの冷たさに戻っていた。
「庄園を完全封鎖」
「蝿一匹、外へ出すな。誰も入れるな」
ボディガードが一斉に頭を下げる。
「はい!」
晴香は壁にもたれたまま、ずるりと床へ滑り落ちた。
胃が掴まれるように痛い。酒を飲んだ時よりも、ずっと。冷汗が噴き出し、腹を押さえる手に力が入らない。
「深也……痛い……」
深也の足が一瞬だけ止まる。
だが、振り返らない。
「痛い? 心のない奴が、痛みを知るのか」
冷たく吐き捨て、扉のところの哲也へ鋭く命じた。
「長老に連絡しろ。今すぐ一族総会だ」
哲也が青ざめる。一族総会――神城家で裏切り者を裁く、最重の場。
「そ、それは……浅倉さん、身体が――」
「身体が?」
深也が振り向き、床の女を見下ろす。目は暗く沈む。
「嵌める時は元気だったろ」
「掟で教えろ。神城家の規矩を」
「掟」
その二文字に、晴香の瞳孔が縮んだ。
前世――屈強な男でも半月は起き上がれなかった。今の自分なら、耐えられるはずがない。
でも言えなかった。
言えば言うほど、嘘だと断じられて怒りを煽るだけだ。
視界が滲む。喉に血が上がってくる。
唇を噛み、ぐっと飲み込んだ。
「庭へ引きずれ。跪かせて、長老を待て」
深也はそれだけ言い捨て、書斎を出ていった。
背中は、決然。
ボディガードが二人、左右から晴香の腕を掴む。床を引きずられるように身体が持ち上がった。
晴香は去っていく背中を見つめ、伸ばしかけた手を止めた。
ズボンの裾を掴みたい。呼び止めたい。本当に裏切っていないと叫びたい。
けれど――分かっている。
今、何を言っても。彼はもう、信じない。
