第2話
胃の底が、ぐるりとひっくり返った。
「うっ……!」
晴香は堪えきれず胸元を押さえ、乾いたえずき声を漏らす。
淵の笑みが一瞬だけ硬直し、すぐに表情を整えて駆け寄ってきた。
「どうした? 昨日、眠れなかったのか?」
腕を伸ばし、晴香の肩を抱こうとする。
指先が触れそうになった、その刹那。
晴香は椅子を蹴るように立ち上がり、跳ねるように身を引いた。
「触らないで!」
鋭い声に、メイク担当の手元から粉餅が落ち、床でぱんっと弾けた。
淵の手が宙で止まる。眼底に陰が走ったが、すぐ甘い仮面に塗り潰される。
「晴香、どうした? ……まだ深也が怖いのか?」
「大丈夫だ。もうすぐ式だろ。結婚したら、あいつは二度と君を傷つけられない」
深也の名が出た瞬間、心臓がきゅっと縮んだ。
晴香は反射的に左手首へ目を落とす。レースの手袋が覆っている場所。
震える指で手袋を引き剥がすと、巻かれたガーゼ。滲んだ血の跡。
――リストカットの傷。
記憶が、濁流みたいに押し寄せる。
昨夜。深也に手を放させるため。淵との結婚を認めさせるため。
自分は深也の目の前で、浴槽の中、手首を切った。
指を突きつけて罵った。変態だ、監禁だと。自由を奪うなと。
刃を喉元に当て、誓わせた。
「深也、放さないなら、死んでやる!」
あの夜、病室のベッドの前で、いつも冷酷で断を下す男の瞳が、痛みで揺れていた。
長い沈黙。長すぎて、晴香は自分が殺されるとさえ思った。
それでも、彼が絞り出したのは掠れたひと言。
「……いい」
赤くなった目で、嗄れた声。
「晴香。生きてさえいれば、手を放す」
「これから先、二度と会わない」
彼は言った通りだった。前世、晴香が死ぬまで――深也は一度も、彼女の前に現れなかった。
狂ったように世界を道連れにしようとしたのは、彼女が死んでからだ。
「……っ!」
晴香は自分の頬を思いきり叩いた。
ぱぁん、と乾いた音。
頬に、真っ赤な指の跡が浮かぶ。
メイクルームが凍りつく。誰も息をするのを忘れたように固まった。
淵が眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「晴香、また何の芝居だ?」
晴香はゆっくり顔を上げ、淵を睨み据える。
「プレッシャーか? 大丈夫――」
淵が手を伸ばし、手首を掴んで抑え込もうとする。
「汚い手で触るな!」
晴香は一歩退き、反射的に化粧台の上のフルーツナイフを掴んだ。
ひらり、と刃が光り、淵の喉元へ真っ直ぐ突きつけられる。
「きゃあっ!」
メイク担当たちが悲鳴を上げ、壁際へ縮こまる。
淵も怯んで後退した。
「晴香! 正気か!? それは刃物だ、置け!」
「正気じゃなかった」
握る手は小刻みに震えているのに、目だけが不気味なほど冴えていた。
「あなたと結婚しようと思った瞬間から、私は狂ってた」
「でも――今は醒めた」
その偽りの優しい顔を見るだけで、皮を剥ぎたくなる。
「淵……この畜生」
言い終えるより早く、晴香の瞳が凶暴に光った。
躊躇など一欠片もない。
ナイフを握り直し、淵の胸へ、渾身で突き立てる。
前世の痛みも憎しみも、全部乗せた一刺し。
「ぐぶっ!」
肉を裂く音が、静まり返った室内に生々しく響いた。
「ぎゃあああっ!」
淵が絶叫する。
咄嗟に身を捻ったせいで、刃は心臓を外し、左肩へ深々と刺さった。
白いスーツが赤黒く染まり、血が噴き出す。
「お前……本気で、俺を……!」
肩を押さえ、信じられないという顔で歪む。痛みに五官が崩れた。
晴香は、柄まで沈んだ刃を見つめ、悔しそうに首を振る。
「……惜しい」
この身体は弱すぎる。大病の直後で、力が入らない。
もう一度機会があれば、確実に心臓を貫けたのに。
晴香は頭のヴェールを引きちぎり、ヒールを脱ぎ捨てた。
裸足で大理石を踏む。冷たい感触が、意識を研ぎ澄ます。
混乱の隙を突き、ボディガードの隙間をすり抜ける。
ドレスの裾を掴み、ホテルの長い廊下を裸足で駆けた。
通りすがりの招待客もスタッフも、呆然と立ち尽くす。
血のついたウェディングドレス。乱れた髪。必死に逃げる花嫁。
「止めろ!」
エレベーターホールには高坂家の人間。
減速しない。
防火扉を押し開け、非常階段へ飛び込んだ。18階から一気に下まで駆け降りる。
裏口を突き抜け、通りへ出た瞬間、真昼の陽射しが目を刺した。
車の喧噪――生きた世界の音が、耳を殴る。
息をする暇もない。今すぐここを離れないと。
晴香は路肩へ駆け寄り、必死に手を振った。
タクシーが急ブレーキで停まる。
「早く出して!」
ドアを引き開け、飛び込むように乗り込む。声が震えた。
中年の運転手がミラー越しに振り返り――一目で固まった。
血のついたウェディングドレス。紙みたいに白い顔。乱れた髪。
事件現場から逃げてきた幽霊みたいだ。
「あ……あの、あなた……」
「グラン・レジデンスへ! 早く! グラン・レジデンス!」
運転手の顔色が、さっと引いた。
「……どこだって?」
「グラン・レジデンス? 無理だ! 打ち首でも無理!」
「神城深也の縄張りだぞ! 俺は行けねえ!」
この街で、深也の名は禁句。
逆らえば翌日には消える――そんな噂がまことしやかに囁かれている。
「お願い……急ぎなの!」
晴香は泣き声で懇願した。
「行ったら死ぬ! 俺まで巻き添えだ!」
運転手は豪門同士の揉め事だと察し、身震いする。
「勘弁してくれ! 俺には家族がいるんだ!」
そう吐き捨てると、運転手は車を降り、後部座席のドアを開け、晴香を力任せに引きずり出した。
「どんっ」
アスファルトに叩きつけられ、膝が裂けて血が流れる。
白いドレスは埃と血で汚れ、みすぼらしさだけが残った。
運転手はそのまま車へ戻り、アクセルを踏み込む。
タクシーが跳ねるように走り去り、排気ガスが顔にかかった。
「げほっ……げほ、げほっ……!」
晴香は地面に伏せたまま、咳き込む。
周りの通行人は指差し、囁き合うだけで、誰も近づかない。
真上の太陽。焼けた路面が、熱を吐く。
裸足で踏むたび、痛みが肺まで突き刺さる。
――二時間の山道。
晴香は、それを歩き切った。
白く柔らかかった両足は擦り切れて肉が剥け、血まみれだ。
地面に薄い血の足跡が点々と続く。
ドレスの裾は黒い油と赤い血でべっとり。汗が乱れた髪を伝い、目に入り、焼けるように痛い。
それでも、目だけは異様に明るかった。
山頂の庄園――グラン・レジデンス。
全市民が近づかない場所であり、深也の住まい。
ついに、見慣れた鉄門が目の前に現れた。
