第3話
晴香は膝が抜けそうになりながら、よろめくように駆け寄った。全身の力がふっと切れて、がん、と鉄門にぶつかる。両手で柵を掴み、指が白くなるほど握りしめた。
「深也! 深也、出てきて!」
門を叩くたび、掠れた声がだだっ広い山頂に跳ね返る。
「深也、帰ってきたの! 開けて!」
返ってくるのは、山の風の唸りだけ。ずらりと並ぶ監視カメラのレンズも、何ひとつ語らない。
晴香は諦めなかった。冷え切った柵に頬を押しつけ、涙をこぼす。埃を混ぜた雫が頬を伝い落ちた。
「深也……私が悪かった。淵とは結婚しない……」
喉が焼けるほど叫び続けた、その時。
門の脇の小さな扉が、「カチャ」と音を立てて開いた。
黒いスーツの男が出てくる。金縁の眼鏡、表情のない顔。
深也の特別補佐、哲也だった。
哲也は眼鏡を押し上げる。
「浅倉さん。招待状を渡しに来たなら不要です。社長はあなたの結婚式に興味がありません」
「招待状じゃない。会いに来たの」
晴香は焦るように一歩踏み込み、哲也の袖を掴もうと手を伸ばす。
「哲也、入れて。どうしても会わなきゃいけないの。大事な話があるの」
哲也はさっと身を引き、露骨に手を避けた。
「自重してください」
冷笑が落ちる。視線が、晴香の破れたウェディングドレスを一瞥した。
「社長に手を放させたのはあなたでしょう。今日みたいな日にここへ来て騒ぐのもあなた。いったい何がしたいんです?」
胸の奥が、針で抉られたみたいに痛んだ。
責められて当然だ。自分は、そういうことをしてきた。
「会いたいの……本当に」
晴香は唇を震わせ、赤くなった目で縋りつく。
「哲也、お願い……一度だけでいい。会わせて……」
膝が抜け、今にもその場に崩れ落ちそうになる。
尊厳なんていらない。会えさえすればいい。
哲也が眉を寄せた、その時。
ポケットのスマホが鳴った。専用の着信音。
二人とも、息が止まる。
哲也が出ると、態度が一変して恭しくなる。
「社長」
その呼びかけを聞いた瞬間、晴香は救命索に縋るみたいに叫んだ。
「深也! 私! 晴香! お願い、入れて! 会わせて!」
哲也はスピーカーに切り替える。
電話の向こうの声が、氷みたいに響いた。
「追い払え」
視界がぐらりと揺れた。
晴香はその場に固まり、涙がぼろぼろ落ちる。胸が痛くて、息の仕方すらわからない。
哲也は通話を切り、淡々と言い放つ。
「聞きましたよね。社長はあなたを歓迎しません。ここは不法侵入です。帰ってください」
「帰らない……!」
晴香は鉄柵にしがみつき、指を外さない。
哲也が苛立って手を振ると、黒服のボディガードが二人、左右から腕を掴み、山道へ引きずり始めた。
「放して! 行かない!」
必死に暴れる。足が地面を掻き、傷口がまた裂けた。血がじわりと滲み、地面に擦りつく。
閉ざされた門。
脳裏をよぎるのは、前の人生で――深也が自分の遺体を抱いて泣き崩れた姿。
会えなければ意味がない。誤解を解けなければ、やり直しなんてできない。
絶対に、帰れない。
晴香の目が決意でぎらりと光る。
彼女はいきなり俯き、左のボディガードの手首に噛みついた。
「っ!」
痛みに手が緩む。
その一瞬で抜け出し、胸元の鋭いダイヤのブローチを引き抜いた。
「近づかないで!」
叫び、針先を自分の頸動脈に押し当てる。
ボディガードたちが硬直した。
針が皮膚を破り、赤い雫が首筋を滑る。汚れたドレスの襟へ、ぽたり、ぽたりと落ちた。
哲也の瞳孔が大きく揺れ、怒鳴りつける。
「死ぬならよそで死ね! 社長の場所を汚すな!」
「ここで死ぬ!」
晴香は泣き叫び、さらに力を込めた。血が早く流れ、白い肌が赤く染まっていく。
「哲也、深也に言って! 会わないなら、家の門前で死ぬって!」
前は、死で彼に手を放させた。
今度は、死で振り向かせる。
哲也は、深くなっていく血の線と狂った目を見て、ついに迷いを滲ませた。
その時だった。
遠くでエンジン音が唸りを上げる。
晴香はふらつきながら立ち上がり、よろよろと脇へ移って斜面の下を見下ろした。
山道を、真っ赤なスポーツカーが乱暴に駆け上がってくる。
いつも黒い迈巴赫しか乗らない深也が、嫌いなはずの色と形。
スポーツカーは派手にテールを振り、噴水の前でぴたりと止まった。
晴香は運転席を凝視した。心臓が跳ねて、喉が詰まる。
長い脚が先に降りる。
次いで、恋い焦がれた影。
深也は黒いシルクのシャツを着ていた。襟元は開いて、綺麗な鎖骨が覗く。気怠さと危うさが同居する気配を纏っている。
彼は車にもたれ、身体を少しひねって、車内へ手を差し出した。
晴香の瞳孔が、きゅっと縮む。
火のように赤いミニドレス、派手な巻き髪の女が笑いながらその手を取った。勢いのまま深也の胸へ倒れ込む。
深也は突き放さない。腰に腕を回し、抱き寄せる。
女はそのまま、庭のボディガードたちの視線など気にも留めず、堂々と深也の腿に腰を下ろした。
「深也~、おうち大きすぎて……足、ふにゃふにゃ。抱っこして入れてぇ」
佐伯茉莉。
最近売れ始めた、セクシー売りの女優。
前の人生でも、自分が去ったあと、深也の周りには女が出入りしていた。
晴香は「変わったんだ」と勘違いし、ほっとさえした。
――今ならわかる。全部、嘘だ。
自分を安心させるための、わざと。
「足がふにゃふにゃ?」
深也の低い声が、軽薄な色を帯びる。
彼は気怠げに顔を向け、狼狽えた晴香へ視線を投げた。
一瞬、鳳眼に痛みが滲む。だがすぐ消え、嘲笑が浮かぶ。
そして晴香の目の前で、茉莉の露出した太腿を軽く抓った。
「あんっ! 深也、いじわる!」
茉莉が甘い声で笑い、身体をさらに寄せる。
深也はもう晴香を見ない。まるで空気だ。
彼は茉莉を横抱きにし、女の甲高い歓声を背に、本邸の玄関へ大股で向かった。
「歩けないなら、ベッドで大人しく寝てろ」
声は大きくも小さくもない。
晴香に、聞かせるための音量。
晴香は爪を掌に食い込ませた。血が滲んでも、痛みは感じない。
かつて自分のためなら命すら捨てた男が、今は別の女を抱き、下品な甘言を吐く。
胸が詰まって息ができない。
それでも、前みたいに逃げなかった。
晴香は涙を拭い、深く息を吸う。
目は揺らがず、まっすぐに据わった。
深也。
こんな芝居で私を追い払うつもり? あり得ない。
演るなら、最後まで付き合う。
この人生、必ずもう一度――あなたを取り戻す。
